●鎌倉は執権が建立したお寺でいっぱい
鎌倉時代と言われる時は150年弱あったが、そのうち130年は北条氏の時代だった。しかも得宗家と呼ばれる初代につながる直系以外が執権を務めるのは、幼い後継が成人するまでのつなぎに過ぎなかった。実際、元寇を迎え撃った8代執権の北条時宗は18歳でその役に着き、鎌倉幕府終焉を迎えた14代高時は12歳となるまでに3人もの短期リリーフを遠い親戚から呼んできている。常に裏切りや離反を恐れていた一族の姿が垣間見える。
頼朝の姿を継承したわけでもないだろうが、執権北条氏は鎌倉に寺社を作り続けた。例えば、建長寺、光明寺、成就院、浄光明寺、円覚寺、東慶寺などなど。鎌倉に今もあれほど寺院が群居しているのは、もちろん米軍の絨毯爆撃の被害にあわなかったためもあるが、まるで供養のように各代の執権たちはお寺を作り続けた。
●幕府終焉の地「東勝寺」
3代目・北条泰時が北条氏の菩提寺として創建した東勝寺は、鎌倉幕府終焉の地となった。いまは鎌倉の市街の真ん中にありながら廃寺となった東勝寺跡地は来る人を拒むかのように緑の草が茂っている。1333年5月22日、新田義貞軍に攻められた鎌倉幕府は、東勝寺へ引き13~15代執権北条氏を含む900人弱の家臣たちがこの地で自刃した。一角には「腹切りやぐら」と呼ばれる場所が残されている。
平家は源氏に絶やされ、源氏は北条に絶たれたが、北条は最後の執権・北条守時の甥が室町幕府2代目将軍・足利義詮となった(守時の妹が足利尊氏の正室)。一族300人ほどを一度に失ったという代償と引き換えに、北条氏は血筋を残せたのである。その後、尊氏は北条氏を弔うため東勝寺近くに宝戒寺を建立した。北条高時の末裔であった高倉健さんが、このお寺に毎年卒塔婆を奉納されていたのは以前ご紹介した通りである。
藤原定家の日記には「(源氏の血筋が絶えたのは)平家の遺児らをことごとく葬った報い」と書かれている。のちの時代に徳川家康を含む武士たちが、どれほど源頼朝を持ち上げてくれようとも哀れさは免れない。鎌倉にあることすらあまり知られていない頼朝の墓には、毎年卒塔婆を奉じてくれる子孫ひとりすらいないのだから。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)