また、大学チームが試合相手になったこともあり、早稲田大学ア式蹴球部(サッカー部)は外国のオリンピック代表チームと対戦している。
当時、大学生が「練習補助員」となって、各国代表選手の練習をサポートするという制度があった。これはアルバイトである。
たとえば、組織委は日本体育大の陸上競技部に役員派遣の依頼を送っている。
「(略)殊にマラソン、競歩におきましては都内の繁雑な交通事情のもとに本コースである、甲州街道で練習を警視庁と協力し実施しますが、この際陸上競技役員を練習管理役員として担当することになりました。つきましては貴校学生○○○○外61名を9月15日より10月20日まで別表によりご派遣いただきたく校務ご多忙のところ誠に恐縮ですがご承諾下さいますよう、お願い申し上げます」(1964年9月3日)
マラソンの円谷幸吉、エチオピアのアベベの練習に日本体育大の学生が付き添うことになる。
東京教育大体育学部(現、筑波大体育専門学群)1年の寺島善一は、所属する陸上部マネージャーから声をかけられ練習補助員となった。各国の陸上選手は、男子は東京大駒場(目黒区)、女子は東京教育大幡ヶ谷キャンパス(渋谷区)の選手村に近いグラウンドをそれぞれ使っていた。東京大駒場キャンパスでは、現在、陸上トラックがある第一グラウンドが跳躍種目、ラグビー場がやり投げ、野球場が円盤投げ、第二グラウンドハンマー投げの練習会場となっていた。
寺島が担当したのはおもにキューバ、ルーマニア、ポーランドだった。思い出深い選手が何人かいる。まずは、キューバの男子短距離選手のエンリケ・フィゲロラだ。男子は東京大駒場のグラウンドで練習することになっていたが、彼は東京教育大幡ヶ谷のグラウンドにやってきた。
「東大駒場でアメリカ人選手と一緒に練習することをいやがったのです。また、フィゲロラ選手は私に『君は英語でしゃべってくれ』と言い、彼はスペイン語を話し通訳してもらいました。英語を使いたくなかった。英語による支配が屈辱的なものであることが身に染みていたからでしょう。大学一年の私にとって大きな衝撃でした」