1959年、キューバ革命でカストロ政権が樹立した。1962年、キューバ危機があり、アメリカとソ連のあいだで核戦争が起きるのではないかと緊張感が漂っていた。そのわずか2年後である。キューバ国民のあいだでは反米感情が高まっていたころだ。

 寺島は親身になってフィゲロラの練習に付き合った。当時、オリンピックの陸上競技でスタートの号令は開催国である日本語で行われたが、ここで、寺島の果たした役割は大きい。

「フィゲロラ選手の前で『位置について、よーい、ドン』を大声で叫んで、スタートの号令に慣れさせました。彼は100メートル走で銀メダルを獲得しますが、まっさらな五輪旗を最初に私のところに持ってきて『サインしろ』と求めてきた。これは嬉しかったです」

 もう一人は、ルーマニアの女子やり投げ選手、ミハエラ・ペネシュだ。寺島はやり投げ選手だったので、練習を効率的、合理的に進めることができた。ペネシュの前評判は高くなかったが、金メダルを獲得した。

「練習では、彼女が投げるやりが刺さるあたりに待機して、それを拾って投げ返すという繰り返しだった。そうして練習効率を上げていました。閉会式のあと、選手村でのお別れ会に招待され、ルーマニア陸上競技選手団長から『君のおかげでこんなに良い成績がとれました。ありがとう』とお礼を言われました。ペネシュ選手は私と同い年だったので気が合いました」

 寺島のオリンピック体験はその後の生き方に大きな影響を与えた。

 2019年、寺島は『評伝孫基禎』(社会評論社)を刊行した。1936年ベルリン大会日本代表の孫は、日本の統治下にあった朝鮮の出身だった。孫はベルリンで「KOREA」とサインする、『君が代』演奏でうつむく、ユニフォームの日の丸を月桂樹で隠す、など日本の支配を拒絶し続けてきた。寺島は孫の知己を得て、彼の生きざまを描くことになるが、東京大会でキューバ選手団と出会った強烈な経験が大きかったようだ。

 寺島は2020年東京大会についてこう訴えている。

「JOCや東京都は選手よりも競技運営ばかり考えており、国威発揚や商業主義がまかり通っています。これでは、諸国民の友好連帯と相互理解、平和というオリンピックの精神を貫くことはできない。残念なことに日本国内でもヘイトスピーチなど人間の尊厳を踏みにじる行為が見られます。だからこそ、開催国の責任として、日本はオリンピックを通じて平和と国際連帯を求めていかなければなりません」

 64年東京大会で政治に翻弄される選手を見てきた寺島の言葉はとても重い。

※文中敬称略。近刊「大学とオリンピック」(中公新書ラクレ)掲載の文章から一部抜粋、加筆した。

(文/教育ジャーナリスト・小林哲夫

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