私は単に、その人物が「実際にやったこと」を批判するのはもっともだが、「やっていないこと」まで非難するのは正しくないでしょうとあたりまえのコメントをしただけなのだが、これが一部の人の逆鱗(げきりん)に触れたらしい。
その6月のイベントはもともと、脳や精神の病気を経験した者どうしで、回復の方途や世の中を生きやすくするやり方について、互いの体験をもとにのんびり話しあうものを予定していた。普通に考えてキャンセルする理由は見当たらないが、なにせ「問題発言をした奴を叩いているときに、横から水を差す奴(與那覇)も問題だ」といった価値観を高唱する者が大手を振って歩く世の中である。
「その水を差した奴と、壇上で共演する奴も問題だ」へとバッシングの対象が拡張された場合、メンタルの安定を保つ自信がないから取りやめにさせてほしいと頼まれては、類似の病を体験したものとして了諾するほかはない。
ちなみに元になった3月の炎上で騒いでいた人々は、その後自身の主張を公開書簡の形にまとめて公表し(「女性差別的な文化を脱するために」 を参照されたい)、そのなかで大略、このキャンセル・カルチャーなる概念設定そのものが、社会的な強者(端的には男性)の側の目線に偏っているという趣旨のことを述べている。弱者(この場合は女性)はしばしば、ボイコットされるまでもなく発言の機会を与えられずにいる場合が多いのだから、そのこととのバランスを考えるべきだと言いたいらしい。
それ自体はわからなくもない理路ではある。しかし、それでは彼女ら・彼らがSNSで火をつけた結果、「共演者にも矛先が向いて、病状が悪化するかもしれないから」として障害者どうしが語り合うイベントが開けなくなる事態は、キャンセル・カルチャーでないならどう呼ぶのが妥当なのか。当該の公開書簡の呼びかけ人や署名者には学識者が多いようなので、ぜひご教示を乞いたいものである。
■「炎上」からの当事者研究
もっとも自身が「うつ」の当事者になった体験が、いま私がものを考える際の基盤になっているとおり、今回のキャンセルから得られたものも大きかったので、私個人に関してはもうさほど嫌な気持ちはしていない。いわばうつに加えて、今度は「炎上の当事者研究」も展開する資格を得たわけだ。