人間といえども感情を伴う動物だから、論争の最中についつい、自分にとっての「敵方」の知性を不当に低く見積もってしまうことは起きがちだ。しかし炎上を仕掛ける者たちは、実際には非難を向ける相手を攻撃するより先に、自らにとっての「味方」こそを侮蔑している――得られるべき情報を遮断して、一方的に転がしてやればよい、単なる「頭数」でしかない存在として数字のように扱っているわけである。
そこにあるのは、重度のニヒリズムであり、相互不信だろう。自らの読者や、まして仲間を信じる人であれば、彼らが相手側のテキストを読んでくれたところで一向にかまわない。それでも必ず、自分の側に立ってくれると信じられるからだ。
逆にいえば論争を炎上に転化させ、相手の存在を視界から抹消するキャンセル・カルチャーを駆動させるのは、そうした人間らしいつきあいのできない孤立者の群れである。
ITテクノロジーの発展は、かくも深刻な人間不信が根を張る社会であっても、「平時」にはそれなりに快適な生活を送ることを可能にした――テレワーク・通販・デリバリーですべてを済ませれば、他人と接することなく生存することも一応はできる。
しかし、そこに「戦時」が訪れたらどうなるか。2020年に始まった新型コロナウィルス禍は、まさにその実験場として、いまなお続いているとも言える。
こうした中、学界や論壇を覆うニヒリズムへの処方箋を模索する時評集『歴史なき時代に』(朝日新書、6月)と、日本社会の全体がそうした状況に至る経緯を綴った『平成史』(文藝春秋、8月)という、2冊の新著を世に問えることは私にとってなによりの幸運だった。むろん私の見立てが当たっているかは、読者各位の評価に委ねるほかないが、できるならそれらを機に炎上ではなく、論争が始まることを願っている。
※『一冊の本』2021年8月号「巻頭随筆」に一部加筆