騒動の最中に印象深かったのは、私が書いた文章へのリンクを貼りつつ、実際にその文章を読めばすぐに「間違い」がわかるコメントを添えてSNSに流す人の多さだった。炎上がピークに近づくと、もはやリンク先(私の文章)と対照するまでもなく、露骨に投稿者こそがおかしいとわかるものも目立ってくる。
実際にあった例を挙げると、私が「フェミニストとしての批評活動」と書いた箇所に触れて、「この著者はフェミニスト批評という概念を知らないのではないか」と揶揄(やゆ)する類である。率直にいって、この批判の意味がわかる人はいまい。「専門は近代日本の政治と外交」とプロフィールに記した研究者に、「コイツは政治外交史という分野があることも知らんのか」と難癖をつけたら、失笑を買うのは批判者の方だからだ。
もっともこれを単なる幼稚な罵倒と切りすてると、たぶん大きなものを見失う。ここで起きているのはより深刻な、言葉によるコミュニケーションの「自殺」と呼ぶべき事態のように思われる。
リンク先を読めばすぐに誤りがわかる批判を添えて投稿する人は、自分の投稿の読み手がそのリンクを踏むとはおそらく思っていない。むしろ、「このリンク先の文章はこんなバカが書いたものだから、“読まなくていいよ”」と伝えるために、罵詈雑言(ばりぞうごん)と抱き合わせてリンクを貼るのだろう。
先ほどの例で言えば、もし「フェミニスト批評という用語も知らない人間が書いたものなら、わざわざ読む価値もない」との印象を作りだすことが目的なのであれば、投稿者はきわめて合理的に行動していたのだともいえよう。
■炎上ではなく「論争」を
炎上と論争の違いはどこにあるかというと、「読者には、相手方の主張内容も踏まえた上で、それでも自分の側が正しいと判定してもらいたい」という姿勢で行われる討議が論争だ。そこには、読者の良識やリテラシーへの信頼がある。
逆に「こちらが勝つためなら、読者に相手側の主張を教える必要はない。否、むしろ読ませてはいけない」といった態度で行われるなら、いかにご立派な学位や著作歴を持つ有識者が関与していようと、それは炎上にすぎない。