義信さんは重量挙げで日本人初のメダリストでもある。現役時代、実績が豊富な指導者がいなかったため、給料が1万円の当時に8万円もする8ミリビデオカメラを借金して購入。自分の姿をカメラで撮影し、フォームを徹底的に研究した。
「調子がいいときはこうなっているのか、調子が悪いときはどこが悪いのか、知りたかった。フォームは自分で見ないとわからない。あの時代は自分の目だけを信じてやらないといけなくて、正解がわからないからいつも遠回りしていた。今はたくさんの信頼できる指導者がいる。宏実も、経験が豊富な父親(義行さん、75=日本ウエイトリフティング協会会長)があらゆることを指導しているから、5大会も出場ができた」
■先陣はものすごい重圧
義信さんは64年東京五輪で日本勢金メダル第1号ともなった。これで日本選手団は勢いづき、「東洋の魔女」と称されたバレーボール女子やレスリングなどで16個の金メダルを獲得した。これは2004年のアテネ五輪と並び、現在まで日本の最多記録だ。
「先陣を任されるのはものすごいプレッシャーだった。銀メダルを取ったローマ五輪では重量挙げは大会の後半だったのに、東京五輪では前に持ってこられてね。最初の金メダルを期待されているのをひしひしと感じた。宏実もいつも初日の競技で、山ほどのプレッシャーがあったんじゃないかな」
64年東京五輪の頃は日本の高度経済成長期。特に五輪開幕に合わせて東京と大阪を結ぶ東海道新幹線が開通し、首都高速道路が整備され、カラーテレビが広がっていった。右肩上がりの日本が、義信さんの背中を押したという。
「そういうのを見ていると、『これは勝たなきゃなんねえな』と思うわけだよ。世界に羽ばたいていくような五輪で、みんな応援してくれていた。その雰囲気が自分をどんどん鼓舞する。それがあったから成長していけたと思うよ」
■57年前と全く違う空気
高揚感や祝祭感にあふれた57年前と比べ、今大会がまとう空気は全く違う。
「今回は1年延期もあり、コロナで練習がいつもどおりできないこともあった。こんなこと誰も経験したことがないよ。宏実や、うちの大学の宮本(昌典、24=男子73キロ級)らほかの選手たちもとても難しかったと思う」