「史絵か? ママがね……もう限界だ」
いつもと違う元気のなさが電話の声から伝わってきた。
わたしの知る父はライオンのお父さんのようにいつも強く、家族を守ってくれるようなひとだった。少々のことでは動じない落ち着きもあった。
こんなエピソードがある。いつだったか、母が習い事の書道で知り合った年下の男性との間に不貞の噂が立ったことがあった。
それが相手の奥さんにバレて、烈火のごとく我が家に電話がかかってきたのだが、そんなときも父は取り乱すことなく、
「僕は自分の妻を信じていますよ。あなたがどんなに騒ごうとね。あなたは自分のご主人を信じられないのですか?」
と静かに、しかし確固とした信念を持って応対をした。このひと言でその女性はぐうの音も出なくなり、引き下がるしかなくなった。それほど父の言葉には重みがあった。
おかげで母は騒動から解放されることができた。
わたしはまだ小学生で子供だったので、このときの真相は知らされていない。でもおそらく火のないところに煙は立たず。きっと事実だったのだろう。
まぁ、いまとなってはどうでもいいような話だ。
そんな父の弱った声を聞くのは正直ショックだった。
聞けば薬がどんどん増えてしまって、日に4回も5回も打っているという。もうシラフの時間はないに等しいと。
彼らふたりの日常に円満な笑いなどはすでになく、たまに交わされるのは、「注射なくなるよ、ちょうだい」という会話だけになっていた。
父の手元に予備のアンプルがないと知ると、夜中でも少し離れた場所にある医療用倉庫に取りに行けと執拗にせがむそうだ。それを拒むと大騒ぎをし、しまいには父を突き飛ばし手を上げるようにまでなっていた。
父もこのときには七十歳を過ぎていたから、男とはいえ体力も落ちてきていた。十歳下の母の手加減なしの腕力には悲しくも負けてしまうようになっていた。
その訴えを聞いて、わたしは自らを強く反省した。わたしは我が家の問題のすべてを見ぬふりをして、年老いた父に押しつけたんだ。
自分勝手にやりたい仕事に没頭し、一生懸命にやっている気分に酔っていただけで、その裏側では父がたったひとりで地獄の苦悩と闘ってくれていたんだ。
その結果がこれだ。
いつかこうなると予期していたはずなのに、わたしはずるさから知らんぷりを決め込んでいたんだ。
わたしは自分を責める言葉がもう見つからなかった。