三つ目は、これは少しやっかいだけれど、けっこう大きかった声。「これは社会的に排除された者の犯罪だ。つまり我々の社会の問題なのだ。女性問題一点に矮小化すべきではない」という、一見リベラルな口ぶりの声。男性によくある反応だった。

 加害者の社会的立場に対する想像、加害者が孤立感を深めていく過程は事件を理解するうえで非常に重要なことだ。とはいえ、犯罪を語る側にもジェンダーのまなざしが問われる。例えば今回のように加害者が男性の場合、「非正規雇用」「貧困」「経済格差」など、彼の犯罪を「社会問題」として語る声はすぐに出てくる。とはいえ、そもそも非正規雇用の約7割を占め、男性との賃金格差も大きい女性が街中でナイフを振り回し「無差別殺傷」するような事件は、過去にどれほどあっただろうか。このような犯罪をおこすのが圧倒的に男性であることは、どのような意味をもつのだろうか。男性が自らの問題を暴力で訴える在り方の背景に、ジェンダー問題はないだろうか。

 そしてなにより、ジェンダー問題は社会問題である。ジェンダーを根拠にした暴力、殺害=フェミサイドは、れっきとした社会問題であることを理解するのは、リベラルを自称する言論人でも難しいのか……ということが今回、よくわかった。「フェミサイド」であるかどうかを、誰がどう決めるのか。

 女性が女性であることを理由にその存在を消されることを、フェミサイドという。当然、これはフェミニストによって定義された言葉だ。ウーマンリブが国際的に盛り上がる1970年代、南アフリカ出身のフェミニスト作家ダイアナ・ラッセルが、1976年にベルギーで行われた女性を対象にした犯罪を裁く法廷で定義したのだ。それまで女性たちが狙われた事件であっても「たまたま」とか、または女性にも非があったとされてきた数々の暴力を、これは性差別をベースにした女性の存在を抹消する虐殺なのだと明言した。

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「被害者にも落ち度はある」とたたく