人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、東京五輪について。
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オリンピックは終わった。その分、新型コロナの感染は増え続けた。やれやれ!
私が見た競技は、ほぼ三種類である。
一つは陸上競技。これは運動の原点ともいうべきもので、走る、歩く、跳ぶといったもっともシンプルな人間の動きである。
走るといえば、おなじみの駆けっこ──短距離もあれば一万メートルやマラソンといった長距離もある。単純なだけに面白い。
二つ目が自転車競技。十年ほど前まで、六年間ほどJKA(旧・日本自転車振興会)の会長をつとめ、女子競輪の復活と今回オリンピックに使われた伊豆のベロドローム建設にかかわったので、その延長として見る必要があった。
そして三番目はつれあいが学生時代障がい馬術をやっていたから見たいというので、つきあった。
女子の自転車競技オムニアムでは梶原悠未選手が落車をものともせず、過酷な生き残りレースに勝って銀メダルだった。
「母とはげまし合った結果だが、金メダルでなくて口惜しい。パリでは金を誓いあった」
という意味のことを語った。
銀や銅のメダルの場合、多くの選手が残念がり、必ず次は金をめざすという。アスリートとして当然のことかもしれないが、私には違和感が残る。
なぜそんなにメダルと色にこだわるのか。
国別ではアメリカ、中国そして日本という順位が示され、さらには日本は史上最多の五十八個のメダルを獲得したとさわぐ。そんなにこだわることなのか。
その度に、私は一九六四年に日本で行われたオリンピックのマラソンで銅メダルだった円谷幸吉選手の悲劇を想い出す。
真面目一筋に積み上げてきた努力家が手にした銅メダルだったが、その次のメキシコオリンピックでは今度こそ金をと、みんなから期待される中、もうこれ以上は走れないと自死を選んだ。父母への感謝をはじめとする残された言葉は、涙なしには読むことが出来ない。