生前の鍜治さん。競馬が好きで100円単位で馬券を買っていた (c)朝日新聞社
生前の鍜治さん。競馬が好きで100円単位で馬券を買っていた (c)朝日新聞社
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 ただでさえ秋の夜は長く感じるうえ、コロナ禍である。自宅でどう時間をつぶしたものか……。そうだ、数独があった! いまや世界で推定2億人以上が楽しんでいるパズルの傑作・数独。今夏亡くなった「数独の父」鍜治真起さん(享年69)の秘話とともに、「数独物語」をお届けする。

【鍜治さんが作った最初の数独問題はこちら】

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 数独は、空いているマス目に1から9までの数字を入れていくパズル。スイスの数学者が考案した方陣がもとになったといわれるが、日本で独自の進化を遂げた。その立役者が、鍜治真起さんだ。

 鍜治さんは慶応義塾大学を中退後、出版社や喫茶店などでアルバイトをしていた。印刷会社で働いていたとき、アメリカのパズル雑誌を見た友人に雑誌づくりに誘われた。

「鍜治さんは特にパズルに興味があったというわけではなく、雑誌を出したいという気持ちが強かったんです。パズルの本ならうまくいきそうだと感じて、雑誌『パズル通信ニコリ』を創刊しました」

 そう説明するのは、鍜治さんが創立メンバーの一人であるパズル制作会社ニコリの現社長・安福良直さん(53=以下、コメントは安福さん)。

 1980年の創刊当初は不定期の刊行で、書店も読者も次にいつ発売されるのかわからない状態。「目にとまった日が発行日」というコピーとともに発売されていた。

 84年。鍜治さんは運命的な出合いを果たす。アメリカのパズル雑誌で「ナンバー・プレイス」という数字を書き込むパズルを見つけた。当時は珍しかった、数字を用いたパズルに興味を持った鍜治さんは、米誌のバックナンバーを買い漁って解くにつれどんどん魅了され、自身も問題を作成。「数字は独身に限る」というパズル名で雑誌に掲載した。一けたの数字を使う→一けた→シングル→独身……と連想した末の命名だった。

 掲載されるや人気を博し、読者が作成した問題がたくさん送られてきた。やがて「数字の位置は点対称にする」など独自のルールを加え、どんどん進化。88年にこのパズルだけを掲載した本の発刊を機に、「数独」という略称が用いられた。

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