最年少の人間を視点にするので、家族間において上の子は「おにいちゃん」「おねえちゃん」と呼ばれるのが一般的です。しかしわがやの子どもたちはアメリカ式(?)に互いを名前で呼び捨てするので、娘の友だちに「〇〇ちゃん(娘)のこと、△△くん(息子)は名前で呼ぶんだね」と驚かれたことがあります。確かにわたし自身、ふたりの弟たちからはずっと「おねえちゃん」とか「おねえ」と呼ばれて過ごし、呼び捨てされたことはただの一度もありません(ちなみに『呼び捨て』って日本語も独特ですよね。名前だけで呼ぶのが無礼であると信じられていることの現れという気がします)。このさき腰の曲がったおばあちゃんになっても、同じく腰の曲がった弟たちから変わらず「おねえちゃん」と呼ばれるんだろうなと想像すると、ちょっぴり不思議な気持ちになります。
対してわたしの母親は、わたしのことをさまざまな名前で呼びます。基本的には「みさこ」と名前で呼びますが、弟たちと一緒にいるときは「おねえちゃん」ですし、わたしに子どもが生まれてからは「マミー」と、子どもたちと同じ呼び方をすることが増えました。未だにこそばゆく、慣れることがありません。もしわたしに孫ができて、そのとき母が存命だったとしたら、しわくちゃ顔になったわたしのことを、同じくしわくちゃ顔をした母が「おばあちゃん」とか「グランマ」なんて呼ぶんだろうか?
時とともに変わったり変わらなかったりする日本語の親族呼称。共通しているのは、どんな呼称も他者との関係性のうえに成り立つものだということです。下の子が生まれた途端、上の子は「おにいちゃん・おねえちゃん」と呼ばれ、子どもができた途端、夫婦は「おとうさん・おかあさん」、孫ができたら「おじいちゃん・おばあちゃん」と呼ばれるようになります。おそらく本人自身が自覚するよりもずっと前から、「あなたはこういう立場の者ですよ」と意識させられるのです。そして本人もその呼び名を自称することにより、姉や母としての意識を高めていくのでしょう。基本的に自称はI(アイ)のみで他者からは名前で呼ばれることが多い英語と比べると、日本語は他者の視線を通じて自己を認識する言語だなとしみじみ感じます。
〇大井美紗子(おおい・みさこ)/ライター・翻訳業。1986年長野県生まれ。大阪大学文学部英米文学・英語学専攻卒業後、書籍編集者を経てフリーに。アメリカで約5年暮らし、最近、日本に帰国。娘、息子、夫と東京在住。ツイッター:@misakohi
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