TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。今回は前回に続いて、南こうせつさんと高円寺を歩いて話したこと。
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「君たちにはヒット曲がない」。南こうせつとかぐや姫はディレクターから言われていた。加山雄三だったら「君といつまでも」、そういう代表作が欲しいと言われ、「僕らはフォーク。ヒットが目的じゃない」と反発した。
ある日、作詞家の喜多條忠さんから連絡が入った。「いい歌詞ができた」
電話で歌詞を聴き、手元のチラシ裏に書き取るとメロディーが浮かんだ。
三畳一間の小さな下宿。その下を流れる神田川、横丁の風呂屋。マフラー代わりの赤い手拭い……。
誰もが知る「神田川」の世界は喜多條さんの学生時代の実話だった。
「LPのB面の曲なんだけど」とラジオでオンエアするなりリクエストが殺到、オリコンチャートを駆けあがる。
「リリースは1973年の9月20日。すぐに1位に。リスナーがヒットさせてくれたんです」
ラジオの深夜放送からは何千、何万のフォークソングが生まれたが、「神田川」は今も聴き継がれるフォーク史の傑作になった。
ジョン・レノン「イマジン」を例に、こうせつさんが「神田川」にまつわる秘話を教えてくれた。
69年にウッドストックフェスが開かれ、ベトナム戦争が泥沼化。そんな政治の季節の若者に「イマジン」が道筋をつけた。
ラブ&ピースが合言葉だった日本ではセクト主義で暴力に走った学生運動が世間に見放され、もう一度勉強し、多くの若者が大企業や官公庁に入っていった。
「転向と言われた彼らの心にこの『イマジン』が響いた。彼ら団塊の世代の頑張りで日本はGDP世界2位になった。それは評価に値すると思う」
♪若かったあの頃 何も恐くなかった/ただ貴方のやさしさが 恐かった♪
「神田川」のサビを口ずさみながら、この部分の本当の意味を知ったのは「神田川」を歌い始めて20年経った頃だったとこうせつさんが言う。「ただ貴方のやさしさが恐かった」は、頂点にある恋愛が解けてしまうのを不安がる女性の心情と理解していた。喜多條は「それは違う」と。