ある偶然から村上の最新短編集を英語訳で読み始めた。これがおもしろいのだ。日本語文の技巧、小道具、その臭みが英訳では消える。すると物語の骨格が浮かび上がってくる。すらすら読めた日本語の奥には、考え抜かれた思想があることに、いまさらながら気づく。新作も、過去作も英語で読むのが癖になった。
■人間であればだれもが
第1作「風の歌を聴け」は英訳で読み返した。スペイン語訳でも10回通読した。ドイツ語訳、フランス語訳で一部、読んだ。
第2、第3外国語では、ほとんど全単語を辞書で引くから、とても時間がかかる。一日に一文しか読めないときもある。すると妙なことがたびたび起きた。
本を読んだって孤独になるだけさ
Leer te ai’sla de los dema’s
日本語訳では読み捨てていた文章が、息を吹き返す。文章の背後に、奥行きが生まれる。いまは銘記して、暗唱している。
どこまで降りても底に着かない井戸。「この世界」ではない、ありえたかもしれないパラレル・ワールド。コミュニケーション不全。中国大陸での戦争。社会がもつ悪意。ただ働くこと、小さく生きることへの敬意。
「作家は処女作に向かって成熟する」という。村上作品に通底するすべての音が、すでにデビュー時から小さく鳴っていたことに気づく。
その音は、現代の、日本人だけが聴取可能な「都会的で、スマートな」、そんな貧しい音ではない。人間であればだれもが抱える孤独。人間であればだれもが希求する共感。つまり世界言語だ。どんな言語に載せられようと、「風の歌」は鳴る。村上の作品が世界で読まれ得るのは、そこだ。
デビュー作は、作者によって最初英語で書かれ、のち日本語に「訳され」たのだという。(朝日新聞天草支局長・近藤康太郎)
※AERA 2021年10月18日号