哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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選挙前にいくつかのメディアから「総選挙の争点は何でしょう?」と訊(き)かれた。コロナ対策が喫緊の争点になるはずだったが、8月中旬をピークに感染者は急減した。どうしてこんなに減ったのか、医者の友人たちに会うたびに訊くのだが、皆「わからない」と首を振るばかりである。感染が収束した理由がわからないのだから、政府のコロナ対策の適否について科学的な判断を下すことはまだできない。だから、コロナ対策は争点にならない。
野党は経済的な指標を取り上げて、日本の国力が急激に低下しているのは過去9年の安倍・菅政権の政策の失敗が理由だと論じたが、与党はこれに取り合わなかった。与党が「経済政策は成功だった」と言い張って初めて論争になるのだが、与党が口をつぐんで、そんな話には興味がないという顔をしていれば争点にはならない。
財政も外交も国防も、与野党ともに言いたいことを言うだけで、素人にはどちらに理があるのか分からない。専門的知識があると称する人たちがまるで違うことを言っているのである。素人に判断できるはずがない。これも争点にはならない。
選択的夫婦別姓が争点化しそうに見えたが、自民党がこれに否定的だったのは支持者を喜ばせるためのマヌーバー(策略)であり、内心では「どうでもいい」と思っていたはずである。だから、本格的な争点になるはずもなかった。
開票速報の時に「争点は何か」訊かれた自民党の高市早苗政調会長が勝敗を決したのは公約の違いではなく「個々の選挙区の事情の違いだ」と答えていた。そうなのだろうと思う。どれくらい駅頭に立ったか、地域の集まりに顔を出したか、陳情を受け付けたか、そういう「どぶ板」の活動が決定的だったということだ。そう考えると、地域の手当てを疎(おろそ)かにしてきた大物政治家たちが苦杯を喫したことの理由も、大阪での維新の全勝の理由もわかる気がする。
素人には政策の良否が判定し難くなった時代には候補者たちが踏んだ「どぶ板」の数が当落を決する。分かりやすいと言えば分かりやすい話だが、議員の適性をそれだけで考量してよいのだろうか。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2021年11月15日号