僕が禅寺に参禅していた頃、自己を放下(ほうげ)しろとよく言われた。まあ一言で言うと自分に執着しないで自分を手放せ、そして諦めろということだ。禅に何も期待するなということでもあった。じゃ「しゃーないやんけ」でやるしかなかった。鈴木大拙は西洋の芸術家に禅の大きい影響を与えた。ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、一柳慧もジョン・ケージを通じて大拙の影響を受けている。しかし、その影響は大拙の論理からで、肉体がらみの修行で得たわけではない。観念としての禅で、大拙の思想の行為化である。そこには「しゃーないやんけ」の諦念の悟りはない。また、「知らんけど」の放下もない。逆に自我を肯定している芸術行為に思えてならない。
と、考えると、「知らんけど」も「しゃーないやんけ」の「思想」も、非常に深淵な禅の極致ではないのか。まるで寒山拾得だ。知らんけど。関西人にはどうもラテン系の血が流れているのでは。関西人はどことなくその日暮らし的な、陽気と明るさを特徴として、初対面でも受け入れてしまうという、警戒心があまりなく、実に感情に正直だ。そして今という瞬間に生きている。関西の芸人のジェスチャーを見ていると、肉体と言語が一体化しているように見える。例えば、明石家さんまや笑福亭鶴瓶は身体をぐねぐね動かしながらしゃべる。時にはサンバでも踊り出すんじゃないかと。そして最後に「知らんけど」と無責任に終わる。その快感は関西人にはよくわかる。
関西人というか大阪人は特に、自己をピエロ化して、周囲の人達を笑いの渦に巻き込んで喜ぶ不思議な習性、これをラテン系と言ってええのかどうか知らんけど。現在、全国的に流行している「知らんけど」の根拠がどこにあるのか、知らんけど、現代のどことなく理屈を優先するような堅苦しい生きにくい世の中に、空洞を空けるように「知らんけど」が流行り出しているのではないだろうか、理屈っぽくなってしまったが、よう「知らんけど」。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2022年11月18日号