■「すーん」ではなかった
昨年度最高の名局に選ばれた棋聖戦五番勝負第1局。タイトル戦初陣の藤井七段(当時)は「現役最強」の呼び声が高かった渡辺明棋聖を相手に、劇的な終盤を制して乗り切った。渡辺の妻で漫画家の伊奈めぐみは、藤井の落ち着いた様子を「すーん」という擬音を使って描いた。本局の終盤で見せた藤井の様子は「すーん」ではなかった。藤井もまた決して「神」などではなく、「人の子」だ。
万感の思いは静かに去っていったのだろうか。122手目。藤井は冷静な手つきで金を打ち、豊島玉に王手をかけた。
最後、完全に詰まされてしまうところまで進めないのは、400年来変わらぬ、上級者のたしなみである。豊島は居住まいを正し、次の手を指さず、美しい終局図を残して投了した。
「実力不足を痛感したので、実力をつけていかないといけないと思います」
王位戦、叡王戦、そして竜王戦と続いたタイトル戦を振り返って、豊島は静かにそう反省した。一方で藤井はどうか。
「実力が足りないというのは一局指すごとに感じることで。対局ごとにうまく判断できない局面があるので、そういう局面を減らしていかないといけないと感じています」
言葉だけを聞けば、どちらが敗者だかわからない。盤上の真理に謙虚に向き合う者だけが、この世界では生き残っていく。
2017年。藤井四段(当時)がデビュー以来無敗で29連勝し、最初のフィーバーを巻き起こした頃。筆者はあるベテランの名棋士に、藤井について尋ねた。
「いまの段階でタイトルをいくつ取っても、まったくおかしくありません」
自分にも他者にも厳しく、とりわけ若手に対してめったに甘いことを言わないその棋士は、藤井の図抜けた才能を激賞した。藤井は14、15歳の段階で、すでにトップに匹敵する実力の持ち主だった。
■羽生も10代で竜王獲得
「藤井聡太が竜王になるまで、あと4年かかりますよ」
17年に戻って当時の人々にそう告げたとすれば「あの藤井でもそんなにかかるのか」と思われるかもしれない。