哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
この記事の写真をすべて見る* * *
瀬戸内海に牛窓という古くからの港町がある。そこに映画監督の想田和弘さんと柏木規与子さんご夫妻をお訪ねした。ニューヨークに拠点を置くお二人は以前から柏木さんの母方の故郷であるこの町で長い休暇を過ごしていた。「牡蠣工場(かきこうば)」と「港町」という二つのドキュメンタリーの傑作もここで撮影された。
コロナで日米の行き来が不自由になったことをきっかけに、ご夫妻は長く暮らしたニューヨークを離れて、牛窓に定住することを決めた。世界で最も活動的な都市を離れて、老人と猫ばかりが目立つ過疎の港町で暮らすことにしたのはどうしてなのか、それに興味があった。
目の前がすぐ海という部屋で話し込んでいるうちに、日が傾き、海に沈み、空が紅に染まり、やがて群青色の夜空に星が輝き始めた。部屋の灯(あか)りを点(つ)けずに、月明かりと星明かりの下で話し続けた。贅沢(ぜいたく)な時間だと思った。
ここでは時間の流れは時計で計測されるものではなく、五感に直接触れてくる。日々、スケジュールに追われながらあくせくと暮らしている私に比べて、ここの人たちはなんと豊かな時間を享受しているのか。羨(うらや)ましくなって、「時間富豪ですね」と嘆息してしまった。
われわれの話の主題は「地方移住」だった。牛窓にも移住者が増えている。古い町屋を改造してカフェやパン屋や工房や画廊を営んでいる。家賃が都市の5分の1ほどだから、あくせく働く必要がない。「いい店なんですけれど、なかなか開けてくれないんです」と想田さんが笑っていた。
都市で低賃金・非正規労働で心身をすり減らすよりも、こんな静かな町で暮らす方がはるかに豊かな生活が送れるのに、なぜそういう選択を試みないのだろう。最大の理由は情報が足りないことだ。地方にどんな雇用やビジネスチャンスがあるのか、都市の労働者には知る手立てがない。「喉(のど)から手が出るほど人が欲しい」地方の求人の事業体と都市の求職者をつなぐ就職情報システムが存在しないのだ。キーボードを叩(たた)くだけで仕事がみつかるシステムの構築こそ「地方創生」の急務のはずなのだが政府も自治体も動く気配がない。いったいなぜなのか。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2021年11月29日号