よく絵は誰のために描くのか? という質問を受けます。ハタと困ります。誰のためかな? 自分のためかな? 世のため、人のためかな、そんな大袈裟なものでもないですね。絵で世界を変えよう、革命を起こそうと考えるプロパガンダ的な美術家もいなくはないですが、僕のやっていることはもっと小さいことのようです。いくら考えてもわかりませんが、時々、なんでこんなアイデアが浮かんで、こんな表現をとるのだろうと疑問を抱くことがあります。描き上ってから、「こんな絵が描けてしもうた」と思うことがあります。自分で描こうと思って描いたとも思われない絵が描けてしまったということは何度もあります。そういう時、フト思うのは、この絵のアイデアや表現のインスピレーションがやってきた源泉のことです。そんな時に思うのが「誰のため」です。
そこで僕はこの絵を描かせた他力の存在をフト想うのです。ではその他力にお礼を言うべきではないかと考えます。そこで初めて気がついたのです。この他力に対して奉納するために僕は絵を描いたのではないかと。よく神社などに行くと巫女さんが鈴などをシャンシャン鳴らしながら踊る光景を見ますよね。あの巫女さんの舞いは神への奉納です。それと同じようなことを僕はしている様に思うのです。
自分のために描いているんだ、と言えばそこにどうしても自我が介在して我欲がでてしまいます。世のため、人のためというのもどこか傲慢に聞こえます。そこで神への奉納といってしまえば何かすっきりするように思います。「誰のために描くか」という僕の答えはインスピレーションを与えてくれた源泉のためということにしましょう。
ここで話を冒頭に戻して、「シン・老人のナイショ話」について話します。前回までの「老親友」はセトウチさんがいてくれたので、このタイトルは成立したのですが、ひとりになって「老」という文字には抵抗がありました。85歳といえば立派な「老」に違いないんですが、「人にはいわれたくないよ」という気持が僕の中にありました。でも、もしこの連載が継続すると、ほっといても自他が認める老人になります。今年より来年の方がもっと老人になります。あと2、3年もすれば立派な自他共に認める老人になります。だったら将来を先取りして、早々に老人といってしまおうと考えて「シン・老人」としました。