羽生結弦は2014年ソチ、18年平昌、22年北京と3回の五輪を戦い抜いた。王者としての重圧や度重なるけがに苦しんだ。それでも、乗り越えてきた。その原動力は何だったのか。五輪3大会を見つめてきた担当記者が振り返る(前後編の前編)。発売中の『羽生結弦 飛躍の原動力』プレミアム保存版(AERA特別編集)から。
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羽生結弦の原動力とは何だろうか。
北京オリンピック(五輪)での記者会見で、羽生が口にしたひとことの奥に、その答えがあると感じた。
「最後に手を伸ばしていたのが9歳の俺自身だったなと。そして最後、そいつの手を取って一緒にのぼったなという感覚があって」
私は、その会見場の最後尾の隅でうなずいた。
子どもの頃、何かができたという感覚、それが楽しいという感覚を、たくさん得てきたのだろう。それが、ここまで頑張ることができる力の源だったんだな、と思った。
私は、2012年3月にフランス・ニースで行われ、初出場だった羽生が銅メダルを獲得した世界選手権から、五輪連覇を達成した18年2月の平昌五輪まで、担当記者としてその言動を見て、伝え続けてきた。
22年2月4日から20日まで行われた北京五輪では、朝日新聞の現地デスクとして様々なスポーツや選手を見ながら、長く追い続けた羽生の姿も見た。8日にあったフィギュアスケート男子のショートプログラム(SP)は、会場のスタンドから見つめた。
羽生は最初の4回転ジャンプで、踏み切る際にエッジが氷の溝に入って1回転になる不運があった。
フリーでは公言してきたクワッドアクセル(4回転半)ジャンプに挑戦した。転倒し回転不足だったが、ダウングレードにはならず、これまでで一番のクワッドアクセルをこの大舞台でやってしまうあたりは、さすがだなと感じた。
ただ、そのジャンプの成功を目指してきた羽生は、フリーを終えて悔しさをにじませた。