「正しい努力をしてきたと思いますけど、自分が考え得るすべてをやってきたと思っているので、ああ、報われねえなあと思いながら、今日までやってきました」
「報われない努力だったかもしれないけど、うまくいかなかったことしかないけど。でも、一生懸命、これ以上ないくらい、頑張りました」
「報われない」という言葉は、翌日朝刊の見出しになった。
羽生が、冒頭の9歳の自分についての発言をしたのは、フリーが終わった4日後にメインメディアセンターで行われた会見。モチベーションについて聞かれたときだった。
「モチベーションについてですが、ん~。正直な話、今まで4A(4回転半)を跳びたいとずっと言ってきて、目指していた理由は僕の心の中に9歳の自分がいて、あいつが跳べとずっと言っていたんですよ。ずっとお前へたくそだなと言われながら練習していて。でも、今回のアクセルはほめてもらえた」
「いろんな方が手をさしのべてくれて、いろんなきっかけを作ってもらって、のぼってこられたけど、最後に手をのばしていたのが9歳の俺自身だったなと」
そのとき、もっとそのことを聞きたいなと思った。「9歳の羽生結弦を育んだものは何ですか」と。
ただ、フィギュア担当者としてこの会見に臨んでいる各メディアの記者の、貴重な質問機会を奪ってはいけないのではないかと思い、自重した。いつかまた、直接話をする機会があったとしたら、じっくり聞こうと思った。
スポーツ記者として、選手の言動や取り組みを記事にするとき、迷い悩むことは多々ある。そんなときは常に「子どもたちの参考になる姿や教訓」を伝えることに立ち戻るようにしてきた。羽生はまさに、そのような姿をたくさん見せてくれる選手だった。
だから、その話を聞くことがとても好きだった。次は何を言うのだろう、どんな言葉を紡ぐのだろうと、ワクワクした。
そういう感覚を強く抱いた最初の取材は、13年の10月だった。ソチ五輪を目指す18歳の羽生が、カナダ・セントジョンで行われたグランプリ(GP)シリーズのスケートカナダに臨んだときのことだ。
この大会、ソチ五輪の金メダル最有力候補と言われていたパトリック・チャン(カナダ)が優勝した。羽生は、ジャンプの回転が少なくなったり、4回転ジャンプで転倒したりして、2位だった。