しかし、『浅草キッド』は、私が勝手に危惧していたような独りよがりの作品ではなかった。劇団ひとりはもともとクリエイター気質の芸人である。彼のコントやパフォーマンスと同じように、細部まで丁寧に作り込まれているので、物語の世界に安心して没入できる。
当時の浅草のレトロな雰囲気も忠実に再現されているし、たけしが師匠から習ったタップを踏んだりする見せ場もある。アイドル映画にはそのアイドルを美しく見せるための場面があるものだが、『浅草キッド』でもそれがきちんと用意されているのだ。
たけしを演じる柳楽優弥は、ビートたけしという人間の根底に流れる「虚無感」のようなものを上手く表現している。決して上っ面の物真似ではなく、たけしの魂をそこに降ろしているような怪演だった。
また、第一線で活躍する現役の芸人が監督を務めているだけあって、作中に出てくる漫才のネタや、芸人同士の軽妙なやり取りが、きちんと面白いものに仕上がっていたのも良かった。これは、一見どうでもいいことのようだが、この作品にとっては重要である。
なぜなら、ビートたけしという人物や彼の師匠との関係を描く上で、それらの場面が欠かせないものだからだ。作中で「面白い」とされていることが実際には笑えないのでは、見る側は興ざめしてしまう。この作品では、そのような物足りなさを感じることがなかった。
芸人同士のやり取りに余分な言葉は要らない。たけしと深見は「笑い」という共通言語で会話をする。芸人の師弟関係とはそういうものであるということをこの作品は教えてくれる。
たけしと深見には「照れ」と「やせ我慢」の美学がある。彼らは人前で本心を大っぴらに語ろうとはしない。でも、そんな古き良き芸人の美学に憧れる現代の芸人である劇団ひとり監督は、あえてまっすぐに彼らの生き様を美しく描いてみせた。その思い切りの良さが、この作品を間口の広いエンターテインメントにしている。
『浅草キッド』は、ビートたけしという史上最高のアイドル芸人の魅力を余すことなく伝えてくれる、アイドル映画の傑作である。(お笑い評論家・ラリー遠田)