営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線四ツ谷駅で離合する400型と300型。画面右側に国鉄(現JR)中央線と1913年に架橋された四谷見附橋が見える。(撮影/諸河久:1963年7月21日)
営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線四ツ谷駅で離合する400型と300型。画面右側に国鉄(現JR)中央線と1913年に架橋された四谷見附橋が見える。(撮影/諸河久:1963年7月21日)

 次のカットが営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線荻窪行きと池袋行きが顔を合わせたシーン。丸ノ内線開業当初に登場した300型(右)と400型(左)を同時に捉えた貴重な記録となった。画面右側に国鉄中央線四ツ谷駅のホームとその後方に優雅な佇まいの四谷見附橋が遠望できる。

 四谷見附橋は1968年2月の新宿線廃止後も健在だったが、1991年に道路拡幅と老朽化のため、二代目の新橋に架け替えられた。余談であるが、初代の四谷見附橋は八王子の多摩ニュータウン長池公園に長池見附橋として1993年に移設され、優美なアーチ橋を鑑賞できる。また、橋上を走った都電の溝付きレールも公園内の姿池畔に展示されている。

牛込線の四谷見附停留所を後にして交差点を右折する12系統新宿駅前行きの都電。四谷見附の交差点は3・10・11・12系統の都電で賑わった。四谷見附~四谷二丁目(撮影/諸河久:1964年5月17日)
牛込線の四谷見附停留所を後にして交差点を右折する12系統新宿駅前行きの都電。四谷見附の交差点は3・10・11・12系統の都電で賑わった。四谷見附~四谷二丁目(撮影/諸河久:1964年5月17日)

 次の写真は、牛込線の四谷見附停留所を発車後、交差点を右折して新宿駅前に向かう12系統の都電。画面左端が前掲の11系統の新宿駅前・月島方面への停留所だ。品川駅前行きの3系統はここから交差点を直進して、「都電のトンネル」のあった喰違見附に向かった。また、1963年10月からは東京オリンピック工事の影響で10系統(渋谷駅前~須田町)が青山一丁目~四谷三丁目~四谷見附~市ヶ谷見附~九段上に迂回運転を強いられ、四谷見附の都電の一員に加わった。

女子マラソンの難所となった高力坂を上る牛込線

 四谷見附の北隣に位置する牛込線の市ヶ谷見附~本塩町には高力坂(こうりきざか)と呼ばれる上り坂がある。高力坂の由来は、江戸期の沿道に幕臣高力小次郎の屋敷があり、そこにあった松が「高力松」と呼ばれる見事な枝ぶりだったことから「高力坂」の呼び名が生まれたようだ。「合力坂」とも表されており、交通局の「主要勾配表」では最急勾配43パーミルの合力坂と表記されている。

外濠通りの高力坂を上る3系統品川駅前行きの都電。本塩町三差路交差点の左端には「いすゞベレット」と「トヨタパブリカバン」、画面右端には1962年式「日産セドリック」のタクシーが写る。市ヶ谷見附~本塩町(撮影/諸河久:1966年3月17日)
外濠通りの高力坂を上る3系統品川駅前行きの都電。本塩町三差路交差点の左端には「いすゞベレット」と「トヨタパブリカバン」、画面右端には1962年式「日産セドリック」のタクシーが写る。市ヶ谷見附~本塩町(撮影/諸河久:1966年3月17日)

 本塩町停留所付近から撮った高力坂が次のカットだ。3系統品川駅前行きの都電が高力坂の勾配を上り切るシーンを捉えていた。右背後には市ヶ谷見附方向に坂を下る12系統両国駅前行きも写っている。 高力坂から3系統の姿が消えたのが1967年12月で、翌1968年9月に10系統が続き、1970年3月に最後に残った12系統が牛込線と共に廃止されている。

 高力坂を著名にしたのが2003年11月16日に開催された第25回「東京国際女子マラソン」だ。スタートから快調に飛ばし独走態勢に入った高橋尚子選手が30キロを過ぎてスピードが鈍り、この高力坂で失速して2位に甘んじている。記録も後半の失速で凡庸なものと終わり、連覇がかかっていたオリンピックの代表選手選考から漏れる悲劇の舞台となった。

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17キロを超えるロングラン系統