勧誘の方法も、救いを求める人に届きやすいものではない。一軒一軒回っての訪問伝道や駅前などでの勧誘。いずれも仏教や神道では行われていない。江戸時代に幕府がキリスト教を禁止し、日本人全員を仏教徒としたために能動的な勧誘活動をする必要がなくなった結果でもある。宗教法人側からぐいぐい攻めて具体的な救済方法を提示するのは、新興宗教しかないのだ。
■俯瞰する余裕はなし
京都大学の鎌田東二名誉教授(宗教哲学)は「山上容疑者の母親の話をよく聞かなければ本当のことはわからない」と前置きしたうえで、こう指摘する。
「数ある宗教のなかで、旧統一教会の教義が最も腑(ふ)に落ちて、深く納得したことは間違いないでしょう。だからのめり込んでいった。教団の異常な献金体質や霊感商法を俯瞰(ふかん)する余裕はなかったと思います」
旧統一教会の代表的な教義の「先祖の供養ができていないから災難に遭う。自分の身に起きる災いは、日本という国が負ってきた罪である」という部分が母親に響いた可能性があるという。
「自分の身に起きた不幸が歴史的な大きい文脈によって広い社会的罪に溶け込んでいくので、自分ひとりの問題ではないと思うことができ、罪責感が軽くなっていく」(鎌田名誉教授)
一方の仏教には「因縁、因果」という概念があり、自分が犯した業によって今があるとされている。その考え方は、当時の母親にとっては苦しみを増幅させるだけのものだったのだろう。さらに、修行で悟りを開くとされるため、子どもを抱えた女性が向き合う対象としてのリアルさもない。
この状況が続くと、今後も、山上容疑者の母親のように悩んだ人が悪質な宗教団体にはまってしまうかもしれない。(編集部・古田真梨子)
※AERA 2022年10月24日号より抜粋