それやこれやで、皮肉にもタレント活動ばかりで、まともに落語に精進しているのかと批判されることもあった。だが、高座では緻密で自然体と評される語りで「明烏」「芝浜」「禁酒番屋」などを得意とした。円生は噺の内容はもとより、手にする扇子の上げ下げ、高さや角度にまで、うるさかったと伝えられる。その伝統を引き継ぐ円楽さんだからこそ、落語界の統一と、ファン層を広げることを悲願としてきた。東西の大物落語家も登場する一大イベント「博多・天神落語まつり」のプロデュースは、その成果といえよう。

 79年に円生が亡くなり、名跡は途絶えたままだ。円楽さんは、円生の名をつなぐことも悲願としていた。このままでは円生の名は忘れ去られてしまう。「一時的でもいいから、自分が継いで、その後をつないでいきたい」と口にしていた。

 最後の高座となった8月の国立演芸場では、病を押して、古典「の皿」を熱演した。自身も涙、客席も涙。最期まで芸人魂を失わなかった。(由井りょう子)

週刊朝日  2022年10月14・21日合併号