SNSは人々のつぶやき、自己アピールであふれているが、危機を伝えるツールでもある。真澄が「おばあちゃんころしちゃうかも」と書き込んだのは追い詰められた者の心の叫び。河原は通称「うさこ」を通じて真澄に連絡を取ろうと試みる。「うさこ」はかつて幼い弟、妹の面倒を見ていたヤングケアラーだった。

 詳細には描かれていないが、子供を救おうと奔走する大人たちもまた「うさこ」と同様、見えない問題を抱えた子供だった(著者の既刊『漂う子』に詳しい)。

 河原と妻のあおいは、親からの虐待を受けて預けられた施設で出会っているし、シバリも父からネグレクトされ、同じ施設で知り合った日系ブラジル人のミゲルにBJJ(ブラジリアン柔術)を習い、父から離れて生きることを選んだ。

 虐待をされて育った人間は我が子を虐待するのを恐れる、と聞いたことがある。しかしこの作品に描かれるのは虐待の連鎖ではなく、苦しみへの共感だ。

 河原やシバリたちがかつての己のような子供たちを救おうとするのは義務でも、単に仕事としてでもない。自分にしかできないことだと感じているから。

 子供には希望がある。可能性がある。子供の元に希望を取り戻すのもまた大人の役割だ。

 子供の抱える問題は、本書に描き切れないほどあるだろう。その一端を知ることには大きな意味がある。子供を追い詰めるのは周囲の大人だけではない。無関心、あるいは無関心を装う大人がそう。子供たちの声は聞こえにくいから、耳を澄ます必要があるのだ。

 本書のタイトルを直訳すれば「子供たちは大丈夫」。逆説的にとらえれば、苦しむ子供たちがいなくならない社会を構築できない大人たちの問題を指しているのだろう。

週刊朝日  2022年10月7日号

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