当時の首相・幣原喜重郎や、GHQ参謀第二部部長・チャールズ・アンドリュー・ウィロビーといった実在人物の名を出しつつ、文京区内に大門町御殿を中心に広大な土地を所有し、首相を目指す「旗山市太郎」や、その旗山の政敵である「吉野繁実」といった、モデルを彷彿とさせる登場人物たちを跋扈させる。この2人の政治家の、ふてぶてしいまでのしたたかぶりも読ませる。
裏切り者、自分に刃を向けた者は決して許さず、時には血で血を洗うことも、そのために犠牲が伴うことも躊躇わないし、厭わない綾女。彼女がいるのは、食うか食われるかの世界であり、常に幾重にも策略を巡らせておかないと、寝首をかかれる世界なのである。
けれど、そんな彼女の非情さは、いつも身を切るような悔恨とともにある。自分を生かすために失われた数多の命、自分が歩んでいたはずの人生への想い。そのあたりの心理が丁寧に描かれていることで、綾女というヒロインの造形が、ぐっと深まっている。
圧巻なのは、終盤の、綾女を仇と狙う女性との活劇場面。修羅を生き抜いてきた2人の、鬼気迫る命のやりとりは、ひりつくような緊張感を覚えるほど。
それにしても、関東大震災後の東京を舞台にした『リボルバー・リリー』(行定勲監督による映画化が決定)の小曽根百合といい、本書の綾女といい、胸の底に哀しみを抱えたヒロインを描かせると、作者の筆は冴え冴えと光る。
「非情と外道が、この家の規律だった」と、自らの人生から切り離していたその家を、稼業を守るため夜叉となった一人の女。その、壮絶に美しくも哀切な横顔が、読後も目に焼き付いて離れない。
※週刊朝日 2022年9月16日号