『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』
朝日新書より発売中
八月に朝日新書の一冊として『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』を刊行することができた。これは今年(令和四年、二〇二二)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のお陰である。
この作品は、北条義時という世間的には知名度の低い人を主役に、これまた世間的には注目度の低い鎌倉幕府の草創期を舞台にしている。なにしろ、同様の時代・舞台設定は義時の姉北条政子をヒロインにした「草燃える」(昭和五十四年、一九七九)以来、実に四十三年ぶりである。
題名からして、なかなか冒険的である。「鎌倉殿」とは、鎌倉幕府の主の呼称だが、世間一般に知られた言葉ではない。ふつう幕府の主と言えば、将軍であろう。しかし正確にいうと、鎌倉幕府の主は「鎌倉殿」であり、将軍(征夷大将軍)は鎌倉殿が源頼朝以来代々就任(任官)した朝廷の役職(官職)なのである。でも、こんなややこしいことは、多くの人にとっては、どうでもいいことである。
「だいじょうぶかいな?」と思っていたのだが、フタを開けてみると、なかなかの人気で関連書籍(拙著もその一つ)も前例が無いのではないかと思うほどの出版点数であり、鎌倉や北条氏の故郷である静岡県伊豆の国市などゆかりの地域も関連施設・イベントを充実させ盛況である。
この人気の一つに、義時やその父時政はじめ登場する東国武士たちのしゃべり方が、くだけていて、親しみやすいことにあると思う。しかし、「武士はあんな話し方をしない」という意見も、当然のことながらある。武士のイメージは人によって、だいぶ違うのである。
そもそも武士は平安時代から明治の初期まで九百年ほど日本に存在したのであり、初めの頃の武士と中頃の武士と後の時代の武士が同じわけがない。しかし、多くの現代日本人が思い描く武士のイメージは、江戸時代の武士(正確には小説やテレビ時代劇の武士)のそれである。また、同じ時代の武士であっても、身分に格差があった。たとえば、貴族である武士も、貴族でない武士もいたし、自分の所領(支配地)、つまりナワバリに住んでいる者もいれば、京都や鎌倉に住んで政治に関わり、所領では暮らしていない者もいた。これでは、武士のイメージは人によって違うことにならざるをえない。歴史学者・研究者と言われる人の間でも、抱いている武士のイメージは、かなり違う。
では、武士とは何か。まず、武士の組織である「武士団」とは「血縁及び私的主従関係を根幹とする戦闘組織」である。「私的主従関係」とは、わかりやすく言えば親分・子分関係である。そして武士とは「武士団の構成員である戦闘員」である。この定義であれば、全時代・全階層の武士に当てはまる。
つまり、武士団とは古今東西に存在する私的武力組織(私的暴力集団)の一種なのである。鎌倉殿と私的主従関係を結んだ者が御家人であり、彼らはそれぞれ自分の武士団の主であった。よって、鎌倉幕府そのものが巨大な武士団、私的武力組織であった。
実際、正治元年(一一九九)の源頼朝薨去から承久三年(一二二一)の承久の乱後までの二十年以上の期間は、鎌倉幕府にとって抗争の時代であった。内戦と言ってよい大規模な武力衝突を含め、この期間に起こった抗争事件は十七件に及ぶ。まさに巨大な私的武力組織の内部抗争であり、武士というものの本質の表れである。
そして拙著が主題にした宝治合戦とは、大河ドラマの主人公北条義時の卒去から数えて二十三年後、宝治元年(一二四七)六月五日に起こった鎌倉幕府の内戦である。戦ったのは義時の曽孫である執権(幕府執政職)北条時頼の率いる執権派と、大河ドラマでは義時の盟友とされている三浦義村の子・三浦泰村の率いる将軍派。執権と将軍(鎌倉殿)、どちらが権力を握るか、幕府政治の将来を賭けた戦いであった。敗北した三浦氏らは源頼朝法華堂に籠もって自刃した。御家人たちは鎌倉時代も中期になってなお、世代交代して戦い続けたのである。
武士は戦闘員であり、すなわち殺人を生業とする。ゆえに揉め事の解決方法として、安易に相手を殺すことを選択する。今日の日本では、たとえば政党や企業の派閥抗争で人が殺されることは、まず無い。鎌倉武家社会とは、現代人の容易に想像できない恐ろしい世界である。だが、鎌倉武士が我々と同じ人間であることもまた事実である。
拙著は奇書と言っても過言ではない奇妙な構成と内容になっている。小説編を主体とし、その前後に歴史の解説編を配している。小説をメインにした理由は、私がイメージする鎌倉武士の息遣いを描きたかったからである。この試みが成功しているかどうかは、読者の判断に任せたい。