「毎週火曜日、自宅から7駅の梅田まで、自転車で通っていると、たまたま、オーディションの選抜メンバーが受けられるレッスンに欠員が出て。他は無料なのに、一人だけ5万円のレッスン料を分割で支払って、誰よりも早くレッスン場に入って、誰よりも熱心にレッスンを受けました。そうしたら、社長さんが、『こんなに頑張った子はいないから、高校卒業するまでの間だけ、いわゆる子役的な、ヤングセクションにいていいよ』と言ってくださったんです」
当時、重い病にふせっていて、意識もなくなっていた母に、「モデル事務所に入ったよ!」という報告をしたときは、普段は動かなかった指が、小さく動いたような気がした。しばらくして、母は息を引き取った。
とはいえ、せっかく入った事務所でも、仕事は服飾専門学校のデッサンモデルなどが多かった。高校を卒業するまで芽が出ず、アンミカさんは結局フリーランスの道を歩むことに。“自称モデル”なので、父親にも勘当されてしまった。
「大学に進学してほしかった父からは、『一流モデルになるまで帰ってくるな』と言われました。でも、そのときに二つ、大切なアドバイスをくれたんです。その一つが、新聞を読んで常に社会の流れを把握しておくこと。もう一つが、社会の役に立てて、自分の心がワクワクするような資格を取りなさい、と。『何か資格が取れたときは連絡してきていいよ。一流モデルになったら戻ってきていいよ』って。それは、父の精いっぱいの愛情なんですよね」
なんとかして一流モデルになりたい! そう思っていた頃、短期でも一流として認めてもらえる場所はどこだろうと思ったときに、脳裏にパッと、「パリコレ」の文字が浮かんだ。「当時は、スーパーモデルブームでした。パリにさえ行けばなんとかなるんじゃないかと思ったけど、ただ行くだけではさすがに不安なので、誰か日本人でパリにつてのある人を探そうと、御堂筋の美容室なんかを徹底的に回りました。で、何十軒か聞いたら、パリに住んでいて、ヘアメイクをしている人が見つかったんです」