「いざっていう時は、これを飲むのよ」

 と白い薬包を見せた。のちに母に問いただしたら青酸カリだったとか。そんな時代だった。

 終戦の日の翌日、長野で見たテレビは、幹に多くの傷がついた松の木を映していた。戦時中は松ヤニから油をとって使った。特攻隊などの飛行機の燃料にするためだった。(私は結核で家に隔離されていたから参加しなかったが)信貴山の参道で男の子たちが松ヤニを取る姿を見ている。

 使える物は利用し、食べられる物は食べて、生きのびるしかなかった。

 本当の苛酷さは戦後にやってきた。河川敷や土手には、いもやとうもろこしなど、主食の代わりが植えられ、ヨモギやアカザ、ノビルなど野の草のほとんどが食べられることを知った。

 結核の療養を終えて学校にもどったら、丈の高い草を大量に刈ってくるよう命じられた。チョマという名の麻で、布にするためだった。

 その翌日のテレビ映像には、上野駅地下道の浮浪児たち。頼るべき親類も、帰る田舎もなく、戦争で父も母も亡くした子供たちの姿があった。

下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

週刊朝日  2022年9月2日号

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