人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「77年前のあの光景」について。
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八月は軽井沢で過ごしている。エアコンの冷房が苦手なので、自然の風が必要なのだ。
したがってテレビも長野ローカルを見ることが多い。こんな機会でもなければ、この地のニュースに接することも少ないから興味深い。
八月十五日前後は、太平洋戦争に関するものが多かった。
長野市の松代大本営は、本土決戦にそなえて、陸軍主導で大本営を移転する大作戦だった。いざという時には、天皇・皇后の御座所も移転する計画だった。私は以前、その一部を見学したことがあるが、途方もない大きさで、迷路のような印象だ。
松代大本営近くの地下壕に海軍司令部を移す計画もあったという。国の中枢が全て長野に移転するかもしれなかった。
もしそうなっていたら? そんなことは想像したくもない。戦後七十七年、八月十五日。ともかく今年もこの日を迎えられたことの不思議を思いつつ、正午の時報と共に黙祷した。
あの日、わが家では、一家の疎開先だった奈良県の信貴山上の旅館に、父が大きなリュックを背負って帰って来た……次の日から、庭の池のほとりで、リュックに詰まった軍の機密書類を焼き始めた。
職業軍人だった父は敗戦時、陸軍の八尾飛行場(大正飛行場)の責任者の一人であった。
無言のまま取り出す書類には朱色の罫があり、墨で書かれた文字も見られた。一枚一枚ていねいにつまみ上げ、火にくべる。一瞬煙が立ちのぼり、焼け跡が広がる。
高い空に赤トンボが無数に舞っていた。全て焼き終えるまで一週間近くかかっただろうか。軍服の後ろ姿を小学生の私は黙ってみつめていた。
それ以後の日常がいかに大変だったか。母は、進駐軍が来たらまっ先に軍人の妻や娘が標的になるからと、私を五右衛門風呂に隠して蓋を閉める。