7月下旬、東京・秋葉原の歩行者天国では人が行き交っていた。加藤智大は2015年に死刑が確定、今年7月26日、死刑が執行された(photo/写真映像部・松永卓也)
7月下旬、東京・秋葉原の歩行者天国では人が行き交っていた。加藤智大は2015年に死刑が確定、今年7月26日、死刑が執行された(photo/写真映像部・松永卓也)

■希死念慮が消えた

 2カ月強の間、彼らの話を集中的に聞き続ける過程で、自分自身に大きな変化があった。私の中にある「希死念慮」が綺麗さっぱり消えてしまったのだ。

 希死念慮とは、特に理由もなく「死にたい」と思う気持ちのことで、これが私は物心ついた5歳くらいの頃から既にある。大人になってからも、幸福度の高さとは関係なく薄ぼんやりと存在し、もはや生まれ持った性質のようなものと理解していた。ところが、41歳にしてそれが突然消え、「死にたい」と思わない日常を生まれて初めて体験している。これは些細なことのようでいて、見過ごしてはいけない重要なヒントのように感じた。

 SNSでは無差別殺傷犯に対する市民感情は「排除」する方向に流れているように見える。一方、彼らを拒絶せずに受け入れ、社会の対策を考えようとする人たちがいる。その存在は、巡り巡って「そうか、私も生きていていいのか」という気持ちを起こさせるのではないか。

 自分の希死念慮の根っこがどこにあるかを考えてみると、教育という場で集団から排除される感覚を少しずつ育ててきたように感じる。勉強ができないからダメ、運動ができないから、声が小さいから、他の子と同じことができないから、ダメ。あらゆる場面で「正解」からズレるたび、この社会から拒絶されているように感じていた。それは私だけでなく、多くの人にとって身に覚えのある感覚だと思う。立派な人間だけが生きることを許された世界は苦しい。

「一人で勝手に死ね」と断罪することは、どんなことが身に降りかかっても人に迷惑をかけるな、闇を抱えすぎるな、トラウマには自力で折り合いをつけろ、という自己責任論を自分自身にも浴びせることになっている可能性があるということだ。

 無差別殺傷という行為は許されるものではない。しかし、彼らに投げかける言葉を変えることは、むしろ、我々にとって救いになるのではないだろうか。(写真家・ノンフィクションライター・インベカヲリ★)

AERA 2022年8月29日号

暮らしとモノ班 for promotion
2024年の「土用の丑の日」は7月と8月の2回!Amazonでおいしい鰻(うなぎ)をお取り寄せ♪