「信長は、農民出身の秀吉を登用するなど、才能のある人材を抜擢していきます。この点は評価できますが、半面、父の信秀の代からの家臣で筆頭家老でもあった林秀貞を使えないとみるや追放するなどしています。自分の感情で部下を評価する上司は、最低です」(本郷氏)
信長の上司としての評価は、5点満点で最低の「1点」だ。
秀吉は「3点」で、「トンデモ人事を行う点がマイナスです」(本郷氏)
会津を治めていた蒲生氏郷が死んだ時、秀吉は、嫡男の秀行がまだ幼いという理由で92万石から宇都宮18万石に削った。幼い子どもに領地を預けるわけにはいかないという秀吉なりの理由はあったが、そこまでするかという点がマイナスだという。
家康は「4点」。ケチなところがあるからだ。
「関ケ原の戦いで勝利した家康は、自分に味方した東軍の大名たちに論功行賞を行います。天下を取ったのですから、本来であれば、味方についた全員の所領を加増してもいいはず。けれど、戦いに遅れた榊原康政はご褒美ゼロでした」(同)
現代社会では情報の取り扱いも重要だ。SNS時代、情報は瞬時に広がり、誰もが意図せず情報戦の渦中にいる。情報管理においても、三英傑に学ぶヒントがありそうだ。
小和田氏によれば、信長は「情報の扱いに秀でていた」。なかでも注目するのが、今川義元と戦った桶狭間の戦いだ。
「信長は総勢2万5千人もの今川軍を、わずか2千の兵で破ります。これは情報戦の勝利です」
今川軍は戦いの前夜に沓掛城(くつかけじょう)に入り、出陣する。その様子を観察し、信長に情報を届けたのが簗田(やなだ)政綱という信長の家臣だった。その結果、信長は今川軍に圧勝し尾張の小大名から急速に勢力を拡大していく。この戦いで信長が戦功第1位として賞したのは、義元の首を取り武功を挙げた毛利新介という家臣ではなく、情報をもたらした簗田政綱だった。
「武功より情報のほうが大切だということを、信長は知っていたのです。信長のすごいところです」(小和田氏)
河合氏は、秀吉を「情報の扱いがうまい」と評する。
秀吉は本能寺で信長が明智光秀に殺された3日後、中川清秀という武将に「信長・信忠父子は無事」などと書いた書状を送っている。清秀は光秀に近しい人物だった。河合氏は言う。