※写真はイメージです(gettyimages)
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「犬のように忠節」と称賛された三河武士たち。主君家康は、全盛期の関白秀吉に「私は殿下のように名物茶器も名刀も持たないが、私のために命を賭けてくれる五百ほどの家臣が宝」と控えめに誇ったという。週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』では、「重き荷を背負い続けて」ついに天下を掌中に収めた家康と家臣たちの道のりを徹底解説。今回は「徳川四天王」の献身に迫る。

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仏教を守護する四つの神
「四天王」と尊称された重臣たち

 家康の家臣の中でも特に「四天王」と呼ばれている酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人。本来、四天王とは仏教を守護する持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の総称であり、その数に合わせ、4人が選ばれたわけである。ただし、四天王として総称されてはいるが、4名は同時代に活躍していたものではない。酒井忠次はほかの三人とは世代が一回り上であり、別格な存在である。

 酒井忠次は、幼少の頃の家康が今川義元の人質となったとき、一緒に駿府へ赴いた。忠次は、同行した家臣の中では最高齢の23歳であり、そのころから補佐役として期待されていたと考えられる。永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が敗死したあと、家康に織田信長と結ぶよう進言したのも忠次だったという。その後、忠次は、家康による三河平定に尽力し、永禄七年(1564)、今川方の拠点吉田城を攻略したのちには、吉田城主となり、東三河をまとめる旗頭に抜擢されたのである。ちなみに、このとき、家臣団の中心にいたのは、この酒井忠次ともう一人、石川家成だった。

 そのころ、本多忠勝・榊原康政は若手で、酒井忠次や石川家成の地位からはほど遠く、旗本先手として家康の直轄軍を構成していた。二人はともに譜代の家柄ではあったが、国衆のような有力な家臣ではない。早くから家康の近習として仕えており、その能力によって抜擢されたわけである。なお、このとき、旗本先手役を務めていたのは、本多忠勝・榊原康政だけではなかった。ほかに、鳥居元忠・大久保忠世・柴田康忠らが並んでおり、この段階では、四天王という地位は確定していない。

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四天王のひとり、井伊直政は…