ところが現代美術の最先端の作品は、考えて考えて、これ以上考えられない究極の観念を作品にします。僕のやっていることと対極の芸術です。こうした観念芸術があるから僕の作品が存在するんだと思います。僕の作品は思考や思想を伝えようとは思いません。どちらかというと作品のテーマ(主題)などどうでもいいことです。何を描くかではなく、如何に描くかという思念が発散するエネルギーが絵だと思っているんです。エネルギーは何かを伝えようとする目的ではなく、無目的な無為な行為の中から生まれるものだと思います。
だから、僕はアトリエでいつもソファーに横になって、ぼんやりしています。昔、禅寺に参禅している時は座禅三昧だったですが、座禅をすると急に頭の中にあれこれ雑念が去来して、頭が爆発しそうになるほど、次から次へと考えに襲われます。すると老師がやってきて、「ほっときなさい」といいます。雑念を追っかけないで、見過ごしなさいと。これってなかなか技術がいります。まあ雑念を吐き出すだけ出してしまえば考えはなくなると。実際生きている以上考えがなくなることはありません。だけどストップをかけることはできます。考えがなくなった時に初めて到達する境地があります。その瞬間をキープすれば、考えないで済むことになるらしいのです。
つまり、子供が夢中になって遊びこけている状態です。絵は幸い、この状態に入ることはできます。頭を空っぽ状態にすることです。考えている時、つまり頭を言葉で満たしている時は、この現世とつながっていますが、空っぽになった時は、宇宙とつながる。そうなると人知を超えた、というか知性や感覚を超えた霊性とつながる。三島さんは、僕にその境地を手に入れろとやかましく言いました。そのために礼儀礼節が必要だと。わかるようでわかりませんでした。三島さんは禅にさほど興味はなかったと思いますが、中国の禅僧の寒山拾得には興味があったようです。
どうでもいい話をするつもりが、こんな話になってしまいました。やっぱり絵が中心の生活をしていると、話があちこちと分散してしまいます。ひとつのことをじっくり考えることのできない性格になってしまっているのですね。ひとつのことを考えるよりも想像を多面化する方が考えが分散して、その内何も考えない空っぽの状態になります。するとその時初めて、創造的になれるんです。その辺は観念的に思考する小説家とは違うゾーンに這入るのかも知れませんね。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2022年1月21日号