ところで、奇襲のパターンとなると、夜討ち朝駆けという言葉が象徴的なように、敵が油断している夜か、未明の戦いが多かった。天正十年(1582)六月二日の本能寺の変も、朝駆けの例である。なお、夜討ち朝駆けの代表例といってもよい戦いが、弘治元年(1555)十月一日の安芸厳島の戦いである。
この戦いは、2万の陶晴賢と、3500ないし4000といわれる毛利元就の戦いで、軍勢の数からいえば、元就に勝ち目はなかった。しかし、戦いでは元就が勝っているのである。それは、その年九月三十日の夜、元就軍が暴風雨をついて厳島に渡り、翌十月一日未明、厳島に布陣する陶軍に奇襲攻撃をかけたからである。陶側が、毛利軍の厳島への移動をつかんでいなかったことと、狭い島の中で2万の大軍が思うように動けなかったことが敗因だった。
天文十七年(1548)七月十八日夜から十九日未明にかけての信濃勝弦峠の戦いも夜討ち朝駆けの典型例である。この戦いは、信濃の小笠原長時が布陣している勝弦峠を武田信玄が攻めたもので、信玄はゆっくりとした足取りで勝弦峠に接近していった。実は、これは信玄の作戦で、小笠原方は、こうした武田軍のゆっくりした進軍スピードをつかんでいて、武田軍が近付くのは数日先と思って油断していた。
ところが、十八日夜、信玄は5000の兵を率いて猛スピードで勝弦峠に向かい、十九日未明、小笠原勢の寝込みを襲い、奇襲攻撃で破っている。
奇襲攻撃のもう一つのパターンが側面攻撃である。背面攻撃もこれに含めてよいと考えられる。側面攻撃の例として最もわかりやすいと思われるのが姉川の戦いである。
元亀元年(1570)六月二十八日にくりひろげられた姉川の戦いは、姉川を挟んで北側に浅井・朝倉連合軍、南側に織田・徳川連合軍が布陣した。浅井軍8000、朝倉軍1万、織田軍2万、徳川軍5000で、数としては織田・徳川連合軍の方が多かった。
ところが、実際の戦闘では、浅井軍によって織田軍は押され気味であった。そのとき、徳川軍の榊原康政隊が姉川の下流から川を渡り、朝倉軍の側面に奇襲攻撃をかけた。この攻撃で朝倉軍が潰走し、浅井軍も敗走をはじめている。
※週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から抜粋