※写真はイメージです(gettyimages)
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 源平がしのぎを削ったその勃興期、一対一で相まみえることが原則だった武士の戦い。しかし蒙古襲来、鉄砲伝来などの新しい風を受けて、合戦は集団対集団の形態に移行。雑兵・足軽を重用する戦術や陣形が練り上げられていった。その用兵の極意とはいかなるものだったのか? 週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』では勝つための「陣形」と「戦術」を大研究。ここでは、奇襲作戦について論じる。

【イラスト解説】奇襲に成功した毛利元就「厳島の戦い」とは?

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 ふつう合戦は「兵多きが勝つ」といわれている。軍勢の数が多ければ、それだけ有利だからで、戦国武将たちも、そのために、いかに家臣団を増やすかに腐心することになる。

 とはいえ、いつも、自分の方が有利な状態で戦いに臨めるとは限らない。少ない人数で大軍に当らなければならない場面に直面することもある。

 少ない軍勢で大軍を破った戦いとして一番有名なのが、永禄三年(1560)五月十九日の桶狭間の戦いであろう。僅か2000の織田信長が2万5000の大軍を率いる今川義元を破った戦いである。

 この桶狭間の戦いにおける信長の勝因は、一つには義元側の油断であるが、もう一つ忘れてならないのは、信長の情報戦略であった。戦い後の論功行賞で、信長が一番槍の功名をあげた服部小平太や、一番首の功名をあげた毛利新介ではなく、義元に関する情報を届けてきた簗田政綱を一番手柄としたことにそのことがあらわれている。

 情報蒐集という点で注目されるのが忍者の出現である。もっとも、当時は忍者とはいわず、透波・乱波、あるいは「くさ」「かまり」などとして出てくるが、忍者のルーツといわれるのが修験山伏で、戦国武将の保護を受ける代わりに情報蒐集をし、こうした忍者によって、敵への攪乱工作なども行われていた。

 攪乱工作としてよく知られているのが離間策である。桶狭間の戦いを前にした信長にもその具体例がある。信長から義元に寝返った戸部新左衛門という侍の筆跡をまねさせ、偽の手紙を右筆に書かせ、「義元についたのは嘘で、義元が尾張に攻めこんできたときには反旗を翻します」といった内容の信長宛の手紙を、途中で拾ったようにして義元に届けている。義元はそれが謀略とは知らず、戸部新左衛門を殺しているのである。

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