東浩紀/批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役
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 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

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 いよいよ第6波が来た。元日に500人を切っていた新規感染者数が8日には8千人を超えた。オミクロン株の感染力は従来株に比べ桁外れに強い。本稿が活字になるころは万を超えているだろう。10万に近いかもしれない。

 ここで求められるのは冷静さと柔軟性である。新株が南アで発見されたのは昨年11月下旬。ひと月あまりで世界を席巻し、欧州や米国は記録的な感染者増に見舞われた。他方で軽症が多いと言われ、死者数の伸びは鈍い。日本でも沖縄で9割近くが風邪に近いとの報告があがっている。今までとは様子が異なるのだ。

 この2年、感染の波が来るごとに医療逼迫(ひっぱく)が叫ばれ、医療崩壊を避けるには感染防止しかないと言われ続けてきた。再び言われ始めている。しかしそもそも医療逼迫は感染拡大のみが原因ではなく、制度的社会的な複合要因によって生じるものである。たとえ季節性インフルエンザでも、みなを入院させていたら医療は崩壊する。リスクが変化したのであれば、それに応じて対応も変えるべきだ。諸外国の例を見るに、新株の感染拡大を抑えるのは不可能に近い。むしろその前提で、医療崩壊を避けるべく諸基準を見直すべきではないか。

 昨年末の12月23日、岸田首相は感染防止策について「やりすぎのほうがまし」と語ったと報じられた。「やりすぎ」のコストがゼロに近いなら正しい。専門家は感染防止を第一に考えるのが仕事だから、そこは考慮しない。けれども現実には過剰な隔離や行動制限は国民に多大な負担を強いる。そのコストと便益を比較し判断することこそ政治の仕事だ。

 これは医学を無視しろということではない。より複雑な判断をしろということだ。

 医者は様々な忠告を与えてくれる。酒を飲むな、運動をしろ云々(うんぬん)。私たちは時にそれに従い時に無視する。無視にはリスクが伴うが、人間は医学的な最適解のために生きているわけではない。社会も同じである。感染防止を自己目的化し、国民生活の質を考慮しないで対策を繰り出すのは、慎重というよりも思考停止である。政権には大局的判断を望みたい。

東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数

AERA 2022年1月24日号