幸雄が「よしおか」を継いだのは42歳の時のことである。それまでの幸雄は東京での仕事が多いこともあってほとんど家にいなかった。だが、寺社に出かけるときは折に触れて娘たちを連れていった。更紗は3歳で東大寺の昭和大修理落慶法要に伴われたが憶えていない。その後も法隆寺をはじめあちらこちらに連れていかれた。よくわからないながら、そこで見るもの聞くものは決して嫌ではなかった。自宅が祖父の営む「よしおか」に近く、学校が終われば工房に行くことも多かった。染め場には入れてもらえなかったが、染料の匂いや工房の雰囲気は好きだったという。

「父は自宅にお客さんを招き、母の手料理でもてなすことも多かったんです。大人の会話に子どもたちを参加させることはなかったけれど、聞いておきなさいという感じでした。そこで使う器の選び方なども見ていて勉強になりました」

 更紗が成人式を迎えると、父は茜に紫をかけた無地の振り袖を染めてくれた。華やかな柄があふれる式場で、深い色に染められた繻子地(しゅすじ)の振り袖姿はさぞかし目立ったと思う。

■洋服の販売員をやめて 染織の勉強のため愛媛へ

 自分の美意識をことあるごとに更紗に伝えた幸雄だが、娘たちに「跡を継げ」と言ったことはない。3人とも伸び伸びと育てられ、大学を出ると就職した。ファッションに興味のあった更紗は杉山の伝手(つて)で「イッセイミヤケ」に就職し、販売員として働きはじめる。

「でも就職して4年目くらいに、『よしおか』の今後のこともあり、『芸術大学に行ったほうがいいのだろうか?』と考え始めました。姉たちは継ぐ気配がなかったので『継ぐんやったら自分やなあ』とも思っていましたから。そこで父に相談したら『愛媛に行け』と言われたのです」

 愛媛県西与市野村町にある市立野村シルク博物館では「染織講座」が開かれており、そこに幸雄も時々教えに行っていた。野村町は最盛期には1100軒もの養蚕農家があった養蚕の町である。「染織講座」ではわずかに残る養蚕農家の繭(まゆ)を使い、糸を取るところから染め、機織りまでを学べる。条件はちゃんと移住すること。更紗は販売員の仕事をやめ、2年コースに入った。講座で学ぶ女性たちは「織姫さん」と呼ばれていた。

■「だいたいこんな感じ」で 質の高いものが届く

「29歳で野村町に行ったのは職人としては遅すぎるスタートでしたが、私にはとても良かったんです。今、糸作りまでできるところはないですから。京都の染織の世界は分業が徹底しているので、他の工程をやっている人たちの気持ちはあまりわかりません。それがわかるようになりましたね。機織りも勉強したので織り機の簡単な故障くらいなら自分で直せますよ」

 この時期に更紗はみっちりと染織の基礎を身に付けることができた。それは「工房の親方」「染織史家」ではあっても職人ではなかった父とは異なる武器である。結局、野村町では2年3カ月を過ごした。08年に「よしおか」に戻ると一職人として働き始めた。

(文中敬称略)

(文・千葉望)

※記事の続きはAERA 2022年8月8日号でご覧いただけます。

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