その責任は東野さんにはあったが、僕にはないと判断した僕は、現代美術であろうと版画であろうと、自分に出来るものはデザインしかない。東野さんが僕のデザインに目をつけたんだから僕はデザインを描こうと思って、「責場」と題した印刷のプロセスを主調とした作品を作ることにして、それを出品した。「美術も版画も知らん、わしはデザイナーだ。これしか出来ん」と言って出品した。ところが、この作品が版画部門のグランプリを獲得して、東野さんを大いに喜ばせる結果になった。
ここで僕のやってきたことは、池江選手のやったクロールで泳ぐ他の選手の中でひとりバタフライをやって結果を出した、そのことと全く同じことをやったわけだ。出品されている沢山の版画の中で、僕の作品だけがデザイン作品である。つまり毛色の違う作品なだけにかえって目立つ。その結果、グランプリが与えられたのであるが、まさに僕は二刀流の池江選手だったわけだ。
ここで話は僕が画家に転向した1980年に下る。この時、先の東野さんが再び僕に言った。「君が画家に転向するのは勝手だけれど、どうして君は油絵をデザイン的に描かないのか」と。「パリ青年ビエンナーレの美術展にデザインを描いて評価されたんだろう。だったら今回の絵画に油絵のようなものを描かないで今までやってきたデザインをそのまま絵画だと言って発表すればいいんじゃないか」と再び、以前と同じことを言った。「画家になったからといって何も絵画的な油絵など描く必要はなかったのだ。かつてのデザインを油絵で描けばいいんじゃないのか?」
そうか、自由形だからといってクロールで泳ぐことはない。バタフライでいいんだ。版画展にデザイン作品を出品して評価されたことをすっかり忘れて、再び絵画展に絵画を出品した。これじゃその他大勢の作品の中にまぎれ込んでしまう。池江選手のバタフライで僕は再び目覚めたのだった。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2022年2月25日号