海音は自分のことを「空っぽ」という言葉であらわした。卑下したのかもしれないが、どのようにも撮られることができるという意味では、モデルとして強い。[撮影/写真部・東川哲也 ヘアメイク/宮川幸(P-cott)]
海音は自分のことを「空っぽ」という言葉であらわした。卑下したのかもしれないが、どのようにも撮られることができるという意味では、モデルとして強い。[撮影/写真部・東川哲也 ヘアメイク/宮川幸(P-cott)]

原宿・竹下通りを歩けば
10人からスカウトされる

 多弁な人ではない。取材前には「おとなしい子らしい」とも聞いていた。インタビューには母が同席し、ともすれば母の方が多く話す。時折、隣の海音は休んでいるように見えた。だが、バービーのような甘やかさや少ない言葉とは裏腹に、どこか潔さのある人なのかもしれないと思った。海音は強い意志を持ってモデルの世界に戻ってきたのかもしれない。

 海音は2001年生まれ、新世紀ベビーだ。5歳のとき大阪で誘われて参加したファッションブランドのフォトコンテストでグランプリをとった。

 家の中では母親のバッグをいくつも引きずって歩き、メイクのまね事をした。おしゃれに興味を持ったのは、環境の影響もある。大阪一の高級歓楽街・北新地でラウンジを経営していた母方の美しい祖母は、初孫の海音が生まれると「着せ替え人形みたいに育てたい」と宣言し、降るように服を買い与えた。父方の祖父は老舗アパレルメーカー勤務。祖父はヨーロッパの高級ブランドのベビー服をいそいそと届けた。

 お洋服が好き。メイクをしてもらって写真を撮られるのが好き。現場でグズったことはない。撮影後に「帰りたくない」と泣いたほどだ。

 東京での撮影の空き時間には、ギャルの聖地、渋谷のファッションビル・109に行きたいと母にねだった。原宿・竹下通りを歩けば1日で10人のスカウトに声をかけられた。2000年代、渋谷を中心とするギャルファッションは小学生にも市場を広げていた。「nicola」「Kids Style」などキッズファッション誌は女の子と母親たちを夢中にした。海音は人気キッズモデルになった。

「ステージママみたいに思われるかもしれませんけど、最初は習い事ぐらいの気持ちだったんです」

 こう話す母・矢野奈美も大阪の生まれ育ちだ。

「でもね、この子を見てたら、ほんとにモデルの仕事が好きな子なんやなって思ったんです。それからは、お勉強よりお仕事を優先してあげようって決めたんです」

 奈美も母親から「一つのことを一生懸命やりなさい」と言われ、声楽家を目指した時期があった。

 父・矢野智久は北新地の和食店の料理人。喜怒哀楽のはっきりした奈美とおだやかな智久。海音の目には、凸凹の2人は「絶好の組み合わせ」に映る。父が海音の朝食を用意し、地元の公立小学校まで自転車の後ろに乗せて送って行く。冬は海音が着替えやすいようにホットカーペットで制服を温めた。海音は遅刻が苦手だった。ギリギリで教室に滑り込むとか遅れて行くことができない。そんなときは母が教室の入り口まで付き添った。教室に入りさえすれば、クラスの輪に溶け込めた。

父・智久は治療費を捻出するために独立して北新地で小料理店を始めた。店は繁盛し、海音は再発せずに済んだ。海音もときどき手伝いにくる(撮影/写真部・東川哲也)
父・智久は治療費を捻出するために独立して北新地で小料理店を始めた。店は繁盛し、海音は再発せずに済んだ。海音もときどき手伝いにくる(撮影/写真部・東川哲也)

(文・三宅玲子)

※記事の続きはAERA 2022年2月21日号でご覧いただけます。

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