この船には、欧米視察から帰る途中の九州帝国大学外科学教授・三宅速が乗り合わせていた。顔面蒼白で死の恐怖におののく大物理学者に三宅が下した診断は、「大腸カタル」であった。現代の病名を当てはめると急性胃腸炎に相当すると思う。

 熱帯・亜熱帯における旅行者下痢症は稀ではないが、予後良好なカンピロバクターやサルモネラ、ビブリオによる腸炎と赤痢、アメーバ赤痢、毒素性大腸菌、ランブル鞭毛虫、コレラなどとの鑑別は臨床症状だけでは難しい。ましてや当時の客船では補助診断法はなく、四診と臨床的な勘だけだったと思う。どのような薬を処方したかは興味あるところだが、残念ながら記録はない。数日で症状が軽快したアインシュタインは11月10日、香港沖でノーベル物理学賞を受賞の電報を受ける。

■アインシュタインと三宅のその後

 11月17日、日本に到着したアインシュタインは各地で大歓迎を受け、日本には非常に良い印象を持った。偶然、主治医となった三宅とは帰国後も親密な手紙のやり取りが続いた。

 しかし、1930年代ドイツではヒトラー率いるナチスが政権を奪取し、ベルリン郊外に居を構えたアインシュタインも永住を許されなかった。ベルギーを経て米国に亡命したアインシュタインはプリンストン大学教授の地位を得る。一方、彼が愛した日本はナチスの同盟国となり、否応なしに戦争に巻き込まれてゆく。三宅は九州帝国大学教授在任中に胆石の研究で学士院賞受賞、日本外科学会会長の重責を果たし、退任後は子息の三宅博が同じく外科学教授となった岡山に隠棲するが、昭和20年、米軍の空襲で死去した。

 戦後、恩人の死を知ったアインシュタインは丁重な弔文を送り、その一部は墓銘碑として三宅の郷里徳島に残っている。アインシュタインは自らの相対論が核兵器につながったことを終世悔いたという。彼の思いは没後50年、相対性理論100年を経て、故多田富雄教授の現代能「一石仙人」となって我々に語りかける。

 一刻も早く、ウクライナの戦争が終わり、平和な社会が訪れることを祈りたい。

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