『戦国武将を診る』などの著書をもつ産婦人科医で日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授の早川智医師が、歴史上の偉人や出来事を独自の視点で分析。今回は、アルベルト・アインシュタインを「診断」する。
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時々、飛行機の中で「お医者さんはいませんか」というアナウンスがある。
数年前のとある学会の帰り、米国の某大都市から成田に向かう飛行機でお呼び出しを受けた。周りの座席には斯界の大物教授がおられるが誰も手を挙げられない。なんとなく気まずい沈黙の後、多分この学会の発表者ではなさそうな少壮のお医者さんが名乗り出て皆ほっとしたものである。筆者の専門であれば協力したいが、おそらく産婦人科感染症の出る幕はあまりないと思う。船旅が主流だった第2次世界大戦前には、船医がいなかったり、専門外だった場合、乗客の中のドクターが活躍する機会はもっと多かったはずである。
■大物理学者の急病
ちょうど100年前の大正11年(1922)10月8日、マルセイユから日本郵船の客船「北野丸」が日本に向けて出港した。地中海からスエズ運河を経て神戸まで1カ月半の旅である。一等船室にはフランス大使石井菊次郎や尾張侯徳川義親とともに、出版社「改造社」の招きで初めて訪日するアルベルト・アインシュタインの姿があった。
1879年、南ドイツのウルムのユダヤ人中流家庭に生まれたアインシュタインは、チューリヒ連邦工科大学で物理学を専攻したが、講義にはほとんど出席せず、自分の興味ある分野だけ勉強したという。何とか卒業はしたものの大学には残れず、アルバイト生活を経て比較的暇なスイス特許庁に技官として就職し、自由時間に理論物理学の研究に浸った。1905年、博士論文として「特殊相対性理論」を書き上げ、さらに「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関する論文を立て続けに発表し時代の寵児となった。チューリッヒ大学の助教授、プラハ大学教授、そして母校チューリッヒ連邦工科大学教授に就任し、原子力の理論的根拠となるE=mc2の方程式や空間を曲げる重力レンズ効果の提唱でドイツ物理学界の第一人者となっていた。
北野丸は順調にインド洋を航海していたが、大物理学者は突然の腹痛と下痢・嘔吐に襲われた。