芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、寺山修司さんについて。
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寺山修司のことを書こう。評者などが語る寺山の話に、しばしば僕は脇役的に登場することがある。まあ天井桟敷のポスターを担当していたから、まあ脇役でもあったわけだ。
彼と初めて会ったのは有楽町の文化人のタマリ場になっていた喫茶店で写真家の細江英公さんと一緒だった。寺山は石原裕次郎を意識したような仕草をして辺りの客にも目くばりをするややスター意識のような存在を自覚していて、背が高いのに上目づかいで下からジロリと人を射ぬくような眼差しを投げてきた。別れる時、「俺、ちょっと後楽園に行く」と言う。「何しに?」。「ボクシングを観に」。「ヘェー」。「ボクシングは血と涙のブルースだよ」とキザな投げセリフを言ったかと思うと、サッと手を上げてタクシーに乗って人混みの繁華街に消えていった。
僕の生活範囲にいる人間と違うな、と思った。こんな自意識の強い寺山とは最初で最後だと思ってタクシーを見送った。それがいつの間にか早朝一番に掛かる電話がきまって寺山という、何年もの蜜月の日々が続いた。電話の内容はアンディ・ウォーホルのように一日の出来事を日記のように語った。そんなある日、こちらから電話をすると「ご用件をどうぞ3分以内で」と録音の声が話す。まだ世の中に留守電が普及する前の話だ。これは面白いとばかり、僕は電話で歌謡曲を歌った。3分で切れると、また掛け直して続きを歌った。
その夜、九條映子さんから「横尾ちゃんでしょ、内の電話を歌で埋めつくしたのは、営業妨害よ、来て聴いてみなさいよ」。夜タクシーを飛ばして寺山家に行った。ドアを細く開いて寺山が顔を覗かせて、「横尾ちゃん、まずいよ、女房がカリカリしているんだよ」。「だって、来て聴いてみなさいと九條さんが言ったよ」。「腹を立てて言ったんだよ」。でもまあまあ、というわけで、録音された自分の歌を二人で何曲も何曲も聴いた。
それから何年か後に寺山は「あれ、録音にとっといてレコードにすればよかったね」と残念そうに笑った。天井桟敷を旗揚げすることになったが、何作目かに演出助手の東由多加とケンカして天井桟敷とも決別してしまった。僕がデザインした「毛皮のマリー」の舞台美術のサイズが大き過ぎて舞台に入らないという。その責任は舞台監督にあるのに東は僕を責めた。とんでもないとばっちりだ。相手がもし寺山なら工夫をしてなんとか実現できたと思うが、当時、生意気だった東を許せなかった僕は、その場で降りた。