編集・解説者としての丹羽は冷静な論述を心がけている。選択した箇所に時折現れては反戦平和思想に根ざした価値づけをほどこす。その際に頻出するのが「動物の血(=人間に宿る獣性)」という言葉である。動物愛護派の私には、何か別の表現があるようにも思えるが、清沢の日記にも似たような表現を探せる。
昭和十八年八月二十七日(金)
満州事変以来の日本に二つの不幸があった。
第一は、軍人を抑える政治家がいなかったことだ。第二に、軍人を抑え得る軍人がいなかったことだ。そのことが動物的衝動に押されて戦争に持ってきてしまったのだ。
終章「暗黒日記の後の日本」で、民主党政権の中国大使を務めたことがある丹羽は、国の選り好みにどれほど根拠があるだろうと記し、「中国とも友好的にやれないはずはない」と続ける。「仇討ち思想」がはびこり国際問題で相手の立場を説明できぬ点で日本人の心根はたしかに清沢の生きた時代と変わらない。東條英機、徳富蘇峰らを戦争最大の責任者と批判した清沢と違って丹羽は具体の固有名を挙げない。そのもどかしさと引き換えに普遍の視座に立とうとする。バトンを引き継いだ丹羽は「泉下の清沢の悲しみに咽(むせ)ぶ嘆きの声が聞こえる」と書いたが、その思いは読後多くの人々が共有するはずだ。
清沢は亡くなるひと月ほど前の日記で「日本人の戦争観は、人道的な憤怒が起きないようになっている」と皮肉った。
動物以下の血が世紀を跨いだ今、再びそのことが問われている。
※週刊朝日 2022年3月25日号