経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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前々回に続いて、今回も推理小説の巨匠、アガサ・クリスティーの作品からインスピレーションを得た。“A Murder is Announced”(『予告殺人』)だ。
英BBCテレビが、クリスティーもののドラマシリーズを放映した。1980年代のことだ。その中に、この作品が収録されていた。度重なるDVD鑑賞の中で、筆者は、登場人物間の全てのやり取りをほぼ暗記していると自負していた。ところが昨夜、またもやこの作品を見ていたら、これまで一度も意識したことがなかった会話が出てきた。原作には登場しないことを確認したが、なかなかのセンスが発揮されている。以下の場面である。
殺人現場で、刑事が家政婦から諸々(もろもろ)聞き出そうとして四苦八苦する。彼女は難民だ。独裁政権下の苦難から逃れて、英国にやってきた。立派な学歴があり、母国では高度な専門職についていた。それがいまや、お高くとまった英国の上流階級に下働き扱いされている。多分に被害妄想的な面もある。だが、その心境は察するにあまりある。
その心境がもたらす反抗心あふれるレスポンスに、刑事は苛(いら)立つ。そして「それで、一体あんたどこの国の出身なの?」と詰問してしまう。すると彼女は答える。「分かりません。今朝はまだ新聞読んでないから」
この彼女の答えが、今回、初めて耳に響き、胸に突き刺さった。一夜明ければ、自分の国が違う国になっている。昨日までの母国が敵国の手に落ちている。朝刊を読むまで、自分が今日は何人なのかが判明しない。
国と国が地続きの大陸欧州においては、しばしば、人々がこういう状況に追い込まれる。ドイツとフランスの国境地帯、アルザス・ロレーヌ地方では、何百年も前から、住民たちが日替わりでドイツ人になったりフランス人になったりしてきた。
いまや独仏間でこんなことは起こらないだろう。多分。だが東欧においては、この緊張状態が今日的現実だ。ウクライナの勇気ある人々がこの現実に切迫した形で当面している。彼らのアイデンティティーが一夜にして変更を強いられる。そのようなおぞましい事態の現実化を阻止しなければならない。
浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演
※AERA 2022年3月28日号