ロシアはウクライナに侵攻したものの苦戦し、停戦交渉も難航することが予想される。 プーチン大統領はなぜ暴挙に出たのか。国内の反乱を鎮圧した成功体験がありそうだ。 AERA 2022年4月18日号の記事を紹介する。
【写真】プーチン氏の顔写真とともに「間抜けなプーチン」の文字が書かれた火炎瓶
>>【前編】「停戦交渉は難航必至 ベトナムもアフガンも合意まで5年…過去の協議に見る早期実現の難しさ」より続く
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ウクライナの民衆に甚大な被害、悲惨をもたらし、ロシアが敗戦国になりそうな暴挙、愚行をなぜプーチン氏が行ったかは不可解だ。彼はレニングラード(現サンクトペテルブルク)大学法学部を卒業し、少年時代から憧れた情報機関KGBに採用され、東ドイツに5年間勤務して中佐に昇進。ソ連が解体した1991年に辞職後、サンクトペテルブルクの副市長から大統領府副長官、連邦保安庁長官などを務め、46歳でエリツィン政権の首相、翌2000年に大統領になった。
絶対的権力を持つ人物が途方もない愚行に走ったのは彼の取り巻きが大統領の気に入るような情報ばかりをもたらすようになったことが第一の理由だろう。
ウクライナとの国境地帯で大演習を行った当初は侵攻を考えず、威嚇で屈服させ、中立的な緩衝地帯にとどめる考えだった、と思われる。だがその効果はなく、世界の注目が集まったため、振り上げた拳をそっと下ろせば威信に関わるから武力行使に出たのではないか。越境したロシア軍は演習に参加するつもりで大量の燃料や実弾は準備していなかったのか、補給難で停止せざるをえなかった。侵攻の初期は航空機による攻撃も少なく、通信も傍受されていたことはロシア軍全体の連携ができていなかったことを示している。
プーチン氏はロシア南部のコーカサスのチェチェン共和国が独立を求め、99年に2回目の反乱を起こした際、連邦保安庁長官として鎮圧を指揮し、猛爆撃と容赦ない地上戦でチェチェンの人口の4分の1、30万人を殺して平定した。その“功績”は彼が若くして首相、大統領になった一大要因だから、成功体験が彼にウクライナへの武力行使を決意させたことも考えられる。