四輪単車の活躍は1964年で終止符が打たれた。北方線の終点北方停留所ですれ違う創業時からの古豪301と和歌山から転入した312。(撮影/加地一雄:1964年11月30日)
四輪単車の活躍は1964年で終止符が打たれた。北方線の終点北方停留所ですれ違う創業時からの古豪301と和歌山から転入した312。(撮影/加地一雄:1964年11月30日)

 筆者は単車時代の情景を撮り得なかったので、北方線沿線在住の畏友、加地一雄氏から拝借したのが次の写真だ。北方線の終点である北方停留所を魚町方から撮影した一コマ。左側の301は小倉電気軌道が開業時に新造した1型で、1920年枝光鉄工所製の木造単車。全長7.925m、定員40名(座席定員24名)で、往時はトロリーポール集電のオープンデッキスタイルだった。右側の312は1925年梅鉢鉄工所製の木造単車で、本連載で掲載した南海和歌山軌道線の前身、東邦電力和歌山支社から1941年に転入している。こちらは301より一回り大きく、全長8.534m、定員56名(座席定員22名)で、トロリーポールを明石電機製のビューゲルに換装していた。

馬に引かれる北方線の単車

校庭で展示保存されることになり、馬に引かれて葛原小学校に向う313の貴重な光景。(撮影/加地一雄:1962年7月24日)
校庭で展示保存されることになり、馬に引かれて葛原小学校に向う313の貴重な光景。(撮影/加地一雄:1962年7月24日)

 加地氏の作品中に貴重な一コマがあった。それは、廃車された北方線の単車を小学校の校庭に保存展示することになり、車体を馬で引いて搬出する記録だった。北方停留所の軌道終端まで322の推進で313を運び、ここでジャッキアップして単台車を抜き取り、次に陸路輸送用のタイヤを装備した仮台車に履き替え、写真のように馬一頭に引かれて北方の東側に位置する北九州市立葛原小学校の校庭まで運ばれていった。

 車体を保存された313は米子電車軌道から1941年に転入した屋根の浅いスタイルの木造単車だった。

北方車庫界隈の点描と黄昏

青空を背景に春陽に映える331型連接車と321型ボギー車。331型は連接部の中間台車に2個の電動機を外吊りに取り付けたユニークな構造だった。北方車庫前(撮影/諸河久)
青空を背景に春陽に映える331型連接車と321型ボギー車。331型は連接部の中間台車に2個の電動機を外吊りに取り付けたユニークな構造だった。北方車庫前(撮影/諸河久)

 次の写真は北方線の車両基地が所在する北方車庫前を発車する北方行き331型連接車。後ろにはビューゲルをZパンタに換装した321型ボギー車も続いていた。小倉の街もこの辺りまで来るとスカイラインがいっぱいに広がり、青空を背景にした気持ちの良い写真が撮れた。画面の右側に向う入庫線の奥が、検修庫のある北方車庫だった。画面左側の門扉の中も電留線があり、こちら側は331型連接車導入時の留置線不足に対応して増設された。

 高度成長期の小倉近郊はドーナツ化現象で北方沿線も住宅団地が拡大され、自動車渋滞の影響を受ける狭軌路面軌道の輸送力不足は深刻になっていった。「北九州高速鉄道」による小倉モノレール線の建設計画が進捗すると、北方線はモノレールの開業に先立って1980年に廃止された。

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北方線の名物電車に