その結果、刑事裁判の裁判官は子どもたちの訴えについて「わいせつ被害を受けたという部分については、疑問を差し挟む余地がないようにも思われる」としながらも、被害を受けた日時と場所の証明が不十分として、教員に無罪の判決を出したのだ。

「無罪」判決が出ると、学校側は勢いづき、学校側に立つ支援者が「虚偽告訴」という誹謗中傷のビラまで地域にまいていった。事件発覚当初から「学校のイメージが下がるのは困りますから、騒ぐのはやめてもらえますか」といった保護者からのプレッシャーが被害者家族にかけられていたが、「無罪」判決によって孤立はより深まっていった。

 関係者の1人は当時をこう振り返る。

「『この事件は冤罪(えんざい)で、金目当てで裁判を起こした』などとPTAなどに対する数々の分断工作が繰り広げられた。私もまんまとはまってしまった」

 性暴力に無理解な司法システムにも支えられる形で、被害者を泣き寝入りさせ、加害者をのさばらせる磁場が、学校には存在する。

 一般的に多くの犯罪被害者は、犯人が特定されなくても「被害者」として社会的に保護される。ところが、性暴力の場合は、加害者が否定し続ければ、「被害者」としての立場すら揺らいでしまう。しかも、多くは面識がある人からの加害だ。周囲の無理解が重なれば、必要な保護を受けられないばかりか、「被害者側に落ち度があった」「なぜそんなことで訴えたのか」などという攻撃の対象になり、コミュニティーから排除され、二次被害にも苦しめられる。

 近年の「#MeToo」運動やフラワーデモによって、自らが受けた性暴力被害の苦しい記憶を打ち明け、連帯してそうした理不尽な社会を変えていこうという動きが広がっているが、それを脅威に感じる男性中心社会からの反動も続いている。

 政権与党の国会議員が、党の会議で「女性はいくらでもウソをつける」と発言したり、「ハニートラップを仕掛けた」などと被害者を誹謗中傷するSNSの投稿に繰り返し賛同を意味する「いいね」を押し続けたりした例もあった。性暴力によって傷つけられた側の人権よりも、権力を持っている加害者側が失う地位や名誉を守ることの方が重視されているあり方を変えなければ、被害者側が安心して相談をし、救済される社会にならない。

『黙殺される教師の「性暴力」』の出版後、「自分の職場でも問題があったが、すぐに声を上げることができなかった。私も黙殺していた。後悔している」という感想のメッセージが寄せられた。

 筆者もこの本を執筆しながら自らに問いかけていたのは、「もし自分がこの事件の学校や保護者、地域住民としてその渦中にいたら、どこまで子どもたちの訴えに敏感でいられただろうか」ということだった。私は記者として、第三者の立場から事件を見ることができた。もし、そうでなかったら、どのような対応を取れただろうか。自分自身の中にも「黙殺」が潜んでいるのではないだろうか。自戒を込めて文字に刻んでいく必要があると感じていた。

 2019年春に始まったフラワーデモの会場には「#with you」と書かれたランタンが置かれている。今、性暴力・性差別が長年続いてきた状況を断ち切る変革期にある。最も問われているのは、子どもや性犯罪被害者の訴えを受け止め、被害者が声を上げやすい環境をつくっていくという私たち一人一人の意識だと思う。本書を通じて、日本社会に「with you」の力が広がることを心から願っている。(朝日新聞記者・南彰)

暮らしとモノ班 for promotion
おうちで気楽にできる!50代からのゆる筋トレグッズ