
※Amazonで本の詳細を見る
生きていくうえで、私たちはこの四苦八苦からどうしても逃れることが出来ないというのがお釈迦さまの教えなのです。
愛する人を亡くした時、人は否応なく孤独を感じます。ただ、それだけじゃない。私たちは、四苦八苦の世の中を生きているのだから、孤独と出逢うチャンスには事欠かないのです。
だから、いくら自分のそばに人が集まってきても結局、人間は孤独、「ひとり」です。ただ、それが心に深くわかるのは、90歳を過ぎてから。80代だとまだわからないと思います。
私は51歳で出家して尼僧になってからずっと一人暮らしです。97歳になった今も、日中は寂庵の3人のスタッフがそばにいて、仕事の手伝いや食事の世話などをしてくれますが、夜はひとり。だから「ひとりで淋しくないですか」と聞かれることが度々あります。
たしかに出家するまでは、人生に疲れて孤独で死んでしまいたい時も、虚しくて気が狂うのではないかと怖れる気持ちも味わっています。でも出家して、瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴になってからは、次第にそういう孤独感が薄くなりました。
いつでも仏さまが私のそばにいらっしゃると信じているから、もう耐え難いほどの孤独は、感じなくなっているのでしょう。
ただ、ひとりの夜が全く淋しくないかといえば、嘘になります。何だか心細くなって、用もないのに急にお友だちに電話をかけることもある。そんなことは滅多にないから、「あら、珍しい。もうすぐお迎えが来るのかしら」なんて、余計な心配をさせているかもしれません。
もちろん、みなさん一人ひとりの孤独と、97歳の老尼、そして作家の孤独とでは、質も量も違うでしょう。でも、人間は孤独という同じ宿命を持っているからこそ、お互いに理解しあえるし、愛しあえるのだと思います。
やはり人間は弱いから、いくつになっても自分にやさしくしてくれる他者を求めている。求めるけれど、ほんとはそんな存在なんかないのね、なぜならひとりだから。